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誰も推せない

 推し活という言葉が広く知られている。誰かを推しとして応援する活動のことだ。推し活は知られているどころか、やろうぜと推奨するような向きさえある。ところが私はどうしてもこれが出来ない。

 なぜかというと推しを選べないのである。コンテンツが数多くあるのもそうなのだが、なんというか、対象に自分の都合を全力で押し付けているような気がしてならない。推される側はそんなこと織り込み済みだろうから気にしないのだろうが、私の方が気にする。

 何をそんなに気にしているのかというと、推し活をしている自分というものを想像したとき、生きる理由を全部押し付けてしまうような気がしてならないのだ。これでは推しにべったり依存することになってしまう。推し活をするのはいいが、これでは本末転倒ではないか。そのうえ、醜い。

 そう、醜いと感じてしまう。生きる理由を自分とはなんの関係もない何かしらに押しつけるということが、醜いと感じてしまうのである。たとえ向こうから救いの手が差し伸べられたのだとしても、私はその手を取ることはないだろう。同じ理由で、私はペットを飼う事も恐らくできない。潔癖症としかいえないが、これはたぶん解消出来ないのではないかと思う。

 結局、私は自分の内側に生きる理由を見つけないといけない。しかし私は、中身に何もない自分自身に、それを見いだすことが出来るだろうか?

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