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自分らしさなんてきっとなくていい



自分に疲れた時、どうして生きているのか分からなくなった時、検索を掛ければ簡単に「自己受容」というワードが目に飛び込んでくる。


自己受容って、「自己」を「受け容れる」。本当にそのままの意味。

でも、そんな簡単に自分を受け容れる事ができたらみんな悩まないよね。


私は本屋さんが好きでよくふらっと立ち寄るけど、一番最初に向かうのはやっぱりエッセイのコーナー。最近はカラフルで読みやすい本がたくさん置いてあって、見てるだけで全部部屋に並べたくなるようなものばかり。

でも、ちょっと背表紙を見てみれば、「自分を大切に」「無理しない」「HSP」「自己肯定感」「頑張り方」「自分らしさ」とか、なんか色々ある。
日本人ってよく国民性を褒められるけど、その裏には壮絶な我慢とか生きづらさを抱えてる人ばかり。だからこんなに多種多様なエッセイが置かれるんだろうな。いつもメンタル系の本の多さにびっくりする。



みんな何事もなく生きてるように見えるけど、きっと多くの人は当たり前に人には言えないことだっていっぱいあるはず。それは、私がそうだからそう言える。誰かに対して感情のままにしてしまったこととか、ずっと悩みで言えないこととか。そんなことを思うと自分だけかなって嫌になる。でも、みんなそれぞれに隠すのが上手いから、全員が根っからいい人でいなくちゃいけないって思いがち。本当は人間だって犬や猫と同じ動物で欲のままに生きていいはずだけど、頭が良くなりすぎたんだと思う。でも、だからこそこうして暮らしやすくて、平和でいられる部分もある。




私も、先述したように結構ちょっとしたことでダメになる人間。

例えば、あえて見ないようにしててもキラキラしてる人を見ると、反対に何もできていない自分に失望する。
無意識に比較してたり、自分に課すハードルが高かったり、自分は特別だって気持ちがどこかにあるから。それって自分に期待してて悪い事ではないんだと思うけど、その人をロールモデルにしたり、同じ生き方をしようとすると余計疲れる。でも、自分のままで生きようとしても自信がなくなる。結果、どうしていいか分からなくなって、そんな嫌な思いをかき消すために食に走ったり、一旦ぶち壊しにかかる。

まず、自分のことを客観視するって難しいし、自分が他人からどう見えてるかとかも分からない。だからこそ、「一人一人違ってあなたにも魅力があるんだよ」なんて言われてもさっぱり分からない。でも、他の人の事はとても魅力があると思える。自分に対しては思えないけど。



自分を受け容れることって本当に難しい。
そうやって結局食に走る自分は好きになれないし、他にも、緊張して大事な所で力が出せない自分も全然好きになれない。何かに疲れて携帯ばっかり見て、目標もなくなんとなく生きようとしてる時間があることも嫌い。



自分らしくいるって、本当に本当に難しい。
「自分らしさ」「人と比べなくていい」とかって言われるけど、その自分らしさの中には結局誰かの要素が入ってるわけだし。何かの影響を受けて自分が形成されてる。「自分らしさ」って思ってるものって、本当に「自分らしい」のかな。
私が思う本当に自分らしい時って、生まれた瞬間と、失うものがなくなった死ぬ瞬間だけ。それ以外は憧れや何かの影響を受け続けながら自分を作って生きていく。それで良いのかもしれないけど、私はそれで自分が分からなくなる。

人間関係も社交辞令とか面倒なものがあって、色んなバイアスに囚われながら生きなきゃいけないなんて、なんで生まれたんだろう、ってすごく思う。自分らしさとかなんて、出せる機会も考える機会もないじゃん。
そうすると、結局人と関わる事がもうすごく億劫になってくる。
それで言うと、人との関わりって怖いと思う。見てない人が想像で物事を言うのも、人づてに聞いたことだけで人となりを判断するのも、ある出来事だけでその人の人格を判断するのも全部おかしい。一生自分の中に秘めてることの方が多い場合だってあるのに、自分自身を判断される筋合いとかもない。

だから、もう自分らしくとかなんて面倒なことは意識しなくていい。自分が好きなものだけに囲まれて、別にそれはその時々で変わって良くて、一貫していないといけないなんて決まりはない。それに、人からの意見も気にする必要はきっとない、ちゃんと分かってくれる人はいる。





1500字のレポートは300字から進まないのに、こういうことは30分あれば1700字書けちゃいます。


とりあえず、もうすぐ8月ってことが信じられない。
こうして当たり前に家族と過ごせるのもあとどれくらいなんだろう、家族にとっての最善の人生ってなんだろう、って最近よく考えます。







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