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約束の橋を架ける

「あたなの夢は何ですか?」と大人から聞かれるのが、苦手だった。

どうしたって、『なるべく大きな夢』を答えようとしていた。

『相手が聞いたら喜びそうな夢』に、忖度していた。

夢という名の、大人や世間からの”期待”を背負わされる感じが、どうも嫌だった。

もはやそれは、自分の夢ではないから。

だからこそ、”夢”という言葉に安っぽさを感じてしまう自分がいる。



しかし、どうも安っぽく感じていた夢のことを『義』だと捉え直すと、途端に趣が移り変わってゆく。

『義』とは、約束を守り、自ら決めること。

自分が自分でありながら他者と繋がるには、そこには自然と”約束”を守る必要が出てくる。

互いを信じ、自ら選択し、未来へ約束を結ぶことで、関係性が温まってゆく。

「夢を描く」のは苦手だったけれど、「約束を守る」ことは誰にでもできるし、僕が昔から大事にしてきたことだ。

けれど、寝ている時に見る夢が自意識と離れた空想であるように、起きている時に思い描く夢も、何となく叶うものだと錯覚してしまうこともある。

誰かが描いた夢を見つけ、「私も一緒に夢を見させて」と、フリーライドしてしまいそうにもなる。

・・・だけど、それはまだ自分の夢じゃない。

そこに"約束"がなければ自分事にならず、夢の中に入って夢中になれない。

自ら約束を結び、義理堅く守り続けながら、共に未来を描くことに意義がある。

各々が決めた約束にはそれぞれ”意味”があり、互いの意味が重なることで『意味合い』が生まれてゆく。

それはまるで、陸と陸を結ぶ橋のようだ。

「橋を架ける」とは、この地からあの地へ想いを運ぶという”約束”を決めることなのかもしれない。

「とにかく大きな橋を架けたい」という夢を描いても、何らかの『義』がなければ、他者との間に意味合いが生まれることはない。

”繋がり”は結ばれない。

けれど、「あの人と約束をしたから橋を架ける」という夢には、『義』がある。

少なくとも2人が繋がっているから。

夢を叶えることに、意味合いがあるから。

他者との間に橋を架けるからこそ、自分が"より自分らしく"いられるのだと思う。

・・・かつて僕が自分の夢を答えるのが苦手だったのは、きっと『利己的』だったんだと、今はそう思える。

「大人を喜ばせようとする」は一見すると利他的だけれど、それ以上に、「自分が好かれたい/嫌われたくない」が勝っているからだ。

その心でどんな”夢”を大人に語ろうとも、自分で決めた”約束”ではないから、義理堅く守りきれない。

子どもに夢を尋ねる大人の本懐は、「子どもが夢を叶えること」のはず。

大人の期待を乗せすぎてしまうこともあるだろうけど、その時は、大人の自尊心が渇いているだけなんだと思う。

自信がなくなれば、大人だって、かつての自分が自分にした約束を忘れてしまう。

子どもが自信を抱けなければ、約束を結ぶことから逃げてしまう。

互いの自尊心を傷つけ合わないように、対等な関係を目指し続けると、今ここで自分に約束をしよう。

・・・夜がやって来たら、雄大な夢を思い描くのも大切だ。

空想にトリップすることで、膨らむ想いがある。

だけれど、、、

朝陽が昇る前に『約束』を結んで、それを守り抜くことから、まずは始めたいとそう思う。

大きな約束ではなく、唯一無二の約束を、共に守り抜きたい。


・・・読んで頂きありがとうございます(*^^*)

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他者の日常を想像し、共に、非日常を創造したい。

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『孤独な夜が明け、いざ朝を迎えようとしている君へ。』

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