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ひき算ではなく、丸ごとそのままで


昨年、印象に残ったドキュメンタリーがありました。
「静かで、にぎやかな世界」

この作品は、東京品川区にある「明晴学園」というろう学校で学ぶ子どもたちを描いたものです。

この学園は、日本で初めて手話と日本語のバイリンガル教育を行う学校として設立されました。
ろう者はそれまで、目が見えないというハンディキャップを埋めるための教育をされてきました。
社会にでて、健常者といっしょに働いて独り立ちできるように、と。

しかし、耳が聞こえない子どもたちにとって、手話を禁止され、日本語を学ぶことは、非常にむずかしいことなのだそうです。
健常者の口元を見て何を話しているか読み取り、自分は生まれてから一度も聞いたことのない自分の声で日本語を発音するという、大変に困難な努力を強いられてきたそうです。

しかしどれでは、自分の思考の中心となる母国語を習得することが困難で、アイデンティティを確立できない、ということで、まずは手話を中心に自分のアイデンティティを育て、第二言語として日本語を学ぶための学校として明晴学園は生まれました。

このドキュメンタリーをみて、一番印象に残ったシーンがあります。
幼稚部から、中等部まである学園の中学3年生の4人の女の子に、ディレクターがこんな質問をしました。
この子たちは、もうすぐ慣れ親しんだ学園を卒業して、外の世界に出ていくことになっていました。

「もし、この薬を飲んだら聴者になれるという薬があったら、飲みますか?」
わたしは、よろこんで飲むと答えると思いました。
しかし、答えは意外なものでした。

「わたしは飲みません。わたしがろう者でなくなったら、わたしでなくなる気がするから」
「わたしは数時間で元に戻れるなら飲んでみたい。もしわたしが聴者になったら、ろう者と聴者の両方の気持ちがわかって、よりお互いの理解が深まるから」

4人とも、このような答えだったのです。

わたしは、このシーンをみて、これまでわたしがハンディキャップのある方について、「何かが足りない」というひき算で見ていたことに気が付きました。
手がない、足がない、耳が聞こえない、目が見えない。
そのハンディキャップを努力や工夫で補いながら、懸命に頑張っている、そんなイメージでした。
でもそれは違っていたのです。
彼らはひき算ではなく、もともとの自分を丸ごとそのままの存在として、個性として生きているのです。

わたし自身は、身体障がいはありませんが、アスペルガーで軽いADHDがあります。
双極性障害で、10年前には精神障がい者2級の手帳を持っていました。
手帳を交付されたとき、
「障がい者になってしまったのか」
とぼんやり思ったのを覚えています。

わたしたちは、あるかもわからない基準からのひき算で自分の存在を、あるいは他者の存在を認識してしまいます。
しかし、そのひき算の元になっている「ふつう」は幻想です。
一人ひとりみな、何かが足りません。
一人ひとりみな、何かが過剰です。

丸ごとそのままの存在である。それだけである。
そこからスタートすることで、人生は豊かに、鮮やかに、より幸せなものになるのです。

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