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短編小説『わたしは花瓶。呪文のように言い聞かせる。』第04話 たわれるように舞う二匹のジャコウアゲハ

 ひとしきり燃えたあと、シーツに包まってサキの腕に顔を埋める。
 首筋に回された彼女の細い左腕はとても手触りが良くて、いつまでも撫でていたくなってしまう。手首から肘へゆっくりと前腕の内側を撫でると、指先が微妙な凹凸をとらえる。その凹凸は彼女の腕に描かれた蝶のタトゥーで、この蝶をを撫でたり、頬ずりをしたり、キスをしたりするのが好きなのだ。
「サキのタトゥー、好き……」
「可愛いでしょ。お気に入りなんだ」
 たわれるように舞う二匹のジャコウアゲハ。一目で魅了されてしまった。蝶の羽を描いている繊細なグラデーションに、いつも目を奪われる。
「ワタシもタトゥー入れたいな。サキと同じヤツ」
「やめときな。痛いよ」
 そう言った後で、サキは何かに思い至って吹き出した。
「あんた、タトゥーより痛そうなの、いっぱい入れてんじゃん」
 この気づかいのなさが好きだ。思わずつられて笑ってしまう。
「最近は入れてないもん……」
「えらいえらい。ご褒美に、彫師紹介してやるよ」
 抱き寄せて、頭をなでてくれる。
「本当!? サキのタトゥー彫った人?」
「そうだよ」
 またひとつサキと同じになることができるのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。サキのやることは、何でも真似したいと思った。サキの好きなものは、何でも好きになりたいと思った。
 サキを真似て、ピアスホールを開けてみたりもした。一つ、また一つとピアスが増えるたびに、サキに近づいているようで嬉しかった。
 そうだ、ワタシはサキになりたいのだ。
 自分が嫌いで自分を許せないワタシと、正反対の場所にサキは居る。サキは絶対的に、自分を肯定しているように見える。
 ずっとワタシを許せるワタシになりたいと思っていた。でもずっと、そんなワタシにはなれずにいた。だからワタシを捨ててサキになりたい。自分を変えることができないのなら、揺るがない自信を持つサキになってしまいたい……そう思っている。

 彫師のスタジオは、マンションの一室に在った。看板もでていないから、場所を教わっていなければたどり着けなかっただろう。不安におびえながら、部屋のベルを鳴らす。インターフォンに名前を告げると、「開いてるから入って」と、ぶっきらぼうな男性の声が返ってきた。
 出迎えてくれた男性は顔中ピアスだらけで、耳たぶのピアスもかなり大きなゲージまで拡張されていた。そして黒いシャツから伸びる腕は、びっしりとタトゥーで埋まっている。
「モエちゃんだっけ? サキの紹介だよね」
 初対面の人に、ちゃん付けで呼ばれるとは思ってもみなかった。
「彫師のヒロです。その辺に座っといて」
 挨拶もそこそこに、ヒロさんはキャビネットの中にファイルをあさり始める。
「サキと同じデザインだっけ? 原画が残ってるはずだから、ちょっと待ってね」
 三十歳くらいだろうか。タトゥーに覆われた腕は太く、とても筋肉質だ。淡々とした物言いに冷たさを感じてしまう。正直こわい。いや、初めて会う男性なんて、愛想が良かったとしても怖いのだけれど……。
 やがてヒロさんが、キャビネットから一冊のクリアファイルを探り当てる。
「このデザインだよね」
 示されたページには、サキの腕に彫られているタトゥーと同じ図柄がファイルされていた。
 奥の施術室のベッドを示され、おそるおそる腰をおろす。
 タトゥーマシン……というのだったか。針のついたマシンや、インクの準備をしながらヒロさんが言った。
「上着脱いで。下着になって仰向けで」
 手首と二の腕の傷のことを思い、思わずためらってしまう。
「どうかした?」
 ヒロさんが、怪訝な表情で見つめている。どう説明すれば良いのか解らず、手首のボタンを外しておずおずと傷痕を見せた。
「そんなの気にしなくていいよ。見なれてるから」
 一瞥して興味なさそうに言うと、ふたたび施術の準備に戻っていった。
「うちのお客、リスカする子けっこう多いよ。特に女の子……いや、最近は男の子も多いか。若い時ってもう、どうしようもないよな。胸の中がモヤモヤするしさ。モヤモヤとの付き合い方も解んないんだろうしさ……」
 言いながらヒロさんが、原画をトレーシングペーパーに写しとっていく。
 消毒を済ませた腕に、サキと同じ二匹の蝶が転写される。
「本当にサキと同じでいいの? アレンジもできるけど……」
 答えなんて決まっている。ワタシはきっぱりと答える。
「同じにしてください」
 このスタジオに来て、初めてまともに言葉を発した気がする。ヒロさんは驚いた表情で見つめていたけど、表情をゆるめると「始めようか」そう言って微笑んだ。
 硬いマットの上で、緊張に身を硬くしながらその時をまつ。やがてタトゥーマシンの、蜂の羽音のような音が響きわたる。マシンの調整を終えると、ヒロさんが静かに告げる。
「我慢できなかったら言ってね」
 腕に針が入った瞬間、当然のことながら痛みを感じた。カッターナイフで手首を刻むときとは違うどこかザラついた痛み……錆びついた刃物で肌を引っかくような痛みが延々と続くけど、もちろん耐えられないほどではない。
 細かく上下する細い針束が、図柄の輪郭をなぞっていく。インクとにじみ出た血を拭き取って、ヒロさんが墨の入り具合を確かめながら針を進める。
「もしかして痛いの平気?」
 激しく上下する針先を見つめたまま、ヒロさんが訊く。
「そりゃ、手首いっぱい切ってますし……」
 渾身のギャグのつもりだったのだけれど、残念ながら笑ってはもらえなかった。
「リスカの痛みとは別だって言う子も多いけどね。耐えきれなくて、途中でやめる子だって居るし」
 腕を切る痛みとは、たしかに違う。けれども例え耐え難いほどの痛みだったとしても、ワタシは耐えきるだろう。腕を針が刺すたびに、サキと同じになることができるのだから……。ワタシにとってはサキに近づくための痛みなのだから……。そんなものは喜びでしかない。
「モエちゃんってさ、マゾだよね」
「べつに痛いのが好きって訳じゃ……」
「そういう話じゃなくてさ。主体性を剥奪されることへの渇望こそが、マゾヒストの本質だとかね……そういう話だよ」
 どういう意味なのか理解できなかった。けれどもヒロさんは、それきり口を閉ざしてしまった。
 三十分ほども経ったのだろうか。マシンの音がやんで、突如として静寂が訪れた。
筋彫すじぼりおわったよ。休憩にしようか」
 マシンの音になれた耳に、静寂の音が痛いほど響く。
 音を振り払うように起き上がって、ベッドの縁にすわる。腕の内側を見やれば、サキと同じ黒々とした二匹の蝶の輪郭が現れていた。
「あの、さっきの話……」
 煙草に火を点けたヒロさんが、白い煙を吐きながら振り返る。
「マゾヒストの話?」
「主体性の剥奪って……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。自分を無くしたいんでしょ……自分以外の誰かの手で。自分の選択や決定に、責任もつのはしんどいもんね。だったら自分で決めなきゃ良いんだしさ。誰かが決めてくれて従うだけなら、こんなに楽なことはないよね」
 指で挟んだ煙草から紫煙が立ちのぼり、部屋の空気と混じり合ってヒロさんとワタシの間に薄いベールのように広がり希釈していく。
「そんなつもりは……」
「サキにはもう抱かれた? とっくに抱かれてるか……。あいつ手が早いからな。サキと同じタトゥーを入れて、サキに近づきたい? いや、サキになりたいのか……」
 椅子の背もたれに身を預けてワタシを見据えるヒロさんの視線はとても冷たくて、どこかサキの鋭い視線を思わせた。冷徹な視線に射すくめられてしまったワタシは身動きできず、言い返すことすらできずにいた。
 やがてヒロさんは大きく煙草を吸い込むと、目を閉じてゆっくりと白い煙を吐きだした。
「すまん、意地が悪かったな。忘れてくれ……」
 ガラスの灰皿で煙草をもみ消すと、ヒロさんはワタシに微笑みを向けた。
 休憩が終わり、輪郭の内側にボカシを入れていく。先程までのマシンと違い、先端に針束がついた長い棒を使ってボカシを入れる。長さは三十センチ近くあるのだろうか……ノミと呼ぶらしい。
 墨を含んだノミの先端が皮膚に刺さり、そして皮膚を引っ掛けるようにして跳ね上げる。ビッ、ビッ、ビッ、ビッ……たくさんの針が皮膚を跳ね上げる音が、一定のリズムで小気味よく耳に届く。
 目を閉じて、左腕の痛みに意識を向ける。タトゥーは一生残るけど、この痛みは今だけのものだ。小気味よい音とともに訪れる痛みを、少しも逃さないように味わい尽くしたい……そう思った。
 けれども、ヒロさんの言葉が頭の中で何度も繰り返されて気もそぞろだ。ワタシを捨ててサキになりたい……言い当てられて言葉を失ってしまった。それはとても素敵なことだと思っていたのだけれど、ヒロさんの物言いから察するに下卑されたように感じる。ヒロさんは、主体性の剥奪への渇望と言っただろうか。主体を奪われたいと望むことこそが、マゾヒストの本質だと……そういう意味のことを言っていただろうか。
 やがて二匹の蝶が彫り上がり、ワタシはサキと同じタトゥーを手に入れた。眼前に掲げてしげしげと眺めてみたり、姿見に映してみたりした。彫りたてのタトゥーはなんだか痛々しかったけど、ワタシにとても似合っているんじゃないかと思った。
 特別なものを手に入れたのだという高揚感が確かにあった。けれども同時に、本当にこれが欲しかったのだろうかという小さな疑問が、胸の片隅に生まれたことにも気づいてしまった。

(つづく)

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