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映画『アリスとテレスのまぼろし工場』 膝裏フェチはマニアックなのか?

……バゼット、世界は続いている。
瀕死寸前であろうが断末魔にのたうちまわろうが、今もこうして生きている。
それを───希望(みらい)がないと、おまえは笑うのか。

Fate/hollow ataraxia 天の逆月


とても奇妙な映画だった。

いくつものテーマが次々と浮かび上がり、そしてすべてが錯綜しながら突き進む混沌としたクライマックスの展開は、感動とも戸惑いとも呼べる独特の味わいを醸し出していた。

そして、どうやら私はその味わいを気に入っている。
愛おしいとすら感じているかもしれない。

一体この映画の中では何が描かれていたのか。
そして私は何に戸惑い、何に感動したのだろうか。


生きて、痛い

予告編からは、岡田麿里お得意の青春群像劇の展開が予感された。

夢を持つことを良しとしない抑圧的な社会の中で、変化への欲望と恐怖で板挟みになった思春期の少年少女が、抱えきれない思いをぶつけ合って自分も他人も傷つける。

複雑に屈折した心境を驚くほど明瞭に言語化してキャラクターにヒステリックに叫ばせるのが岡田麿里脚本の得意技だ。
正直その説明的なセリフのクドさとクサさにやや食傷気味なのと、観客の解釈への信頼のなさに思えてしまうのが個人的にあまり好きではないのだが、そこで扱おうとしている問題意識には強く共感してきた。

そして今作でも、その要素は間違いなくあった。
少なくとも途中までは、思春期の人間関係におけるグチャグチャとした感情の絡み合いが話の中心に据えられていたと思う。

中学生の正宗たちは、なぜか決して変化してはならないと厳しく管理された世界の中で毎日退屈を覚えている。
その中でもどうにか生の実感を得ようと、友人同士でふざけて気絶させるなどして、死に近づこうと苦痛を求めていた。

映画の中で一貫して描かれていたのが、この苦痛だ。
人が生を謳歌するためには、何者かになりたい、誰かに認められたい、誰かと一緒にいたい、といった欲望が必要であり、その生は広い意味での奪い合いのうえにしか成り立たない。
だから、生の実感には単純な快楽だけではなく必ず痛みを伴う、いやむしろその痛みこそが生の実感の本質だというのがこの映画での主張に見えた。

しかし少し意外だったのは、正宗らが欲望を持つことについて、ほとんど葛藤を見せないことだ。変化に対する恐れがない、と言い換えてもいいかもしれない。また、思春期特有の努力をバカにしたようなニヒリズムに傾倒する感じも一切なかった。
もちろん、彼らのいた世界が特殊だったという事情はあるだろう。しかしそれを差し引いても、だ。

一方で、冒頭のシーンで部屋でかかっていたラジオから聞こえてきた学生の投稿メールは、受験から逃げ出したい、何者にもなりたくない、自分が何をしたいのかわからないといった調子で、まさにモラトリアム真っ盛りといった様子だった。
本当はなりたいものがあるくせに、周りのせいにして努力から逃げて自分を誤魔化す。そうして平気なフリをしていても、日々着実に過ぎていく時の流れに微かな焦りが募っていく。
私にとっては、思春期の内面のイメージはこちらに近い。

最終的にはこのラジオの投稿者を正宗が叱咤激励することになる。
変化を恐れる気持ちを世界のせいにするな。
やるべきことから目を逸らすな。
貴重な可能性を安易に捨て去るな。
しかしその声さえも、彼の中に元からそういった葛藤があったというよりも、彼の住む世界が偽物で未来がないという絶望に端を発しているものに見えた。
そもそも変化に対する欲望と恐怖という葛藤は、最初からあまり描くつもりがなかったのかもしれない。

今の10代にとっては、正宗たちのこの感覚の方が共感しやすいという判断だったのだろうか。


ニセモノの世界

出口がなく、時の進まない世界で変化を渇望しながら、恋愛感情に振り回される少年少女たち。

彼らの関係性がどう変化していくのかは勿論気になるが、それ以上に説明がほしくなるのがこの明らかに異常な世界の方だ。
そしてその正体は、物語の中盤、割と早い段階であっさりと明かされる。
正宗たちのいる世界は、現実ではなく幻だったことが判明するのだ。
彼らは、この世界は製鉄所の事故を契機に一時的に現実から切り離されただけで、いつか現実の時の流れに戻ることができると信じていたが、実際はそんな未来など永遠に来ないことが明らかになる。

なぜそんなことになってしまったのか気になるところだが、その理由がはっきりと語られることはない。
唯一、「この土地が最も幸せな時代を再現しているんじゃろう…」とふんわりした理由をおじいさんが話してくれる程度だ。
このセリフを聞いた時は、忘れ去られた土地を悼むといったテーマが浮上するのかと内心期待したが、残念ながらあまりそこが掘り下げられることはなかった。

また不思議だったのは、この世界が幻の存在だと知った後のキャラクターたちに、いまいち自分たちの存在に対する苦悩や葛藤が見えなかったことだ。(あくまで表面的なレベルの話だが)
変化を禁じられることがもたらすそれまでの閉塞感と、世界が偽物であることの絶望感の見分けがつきにくく、彼らの中で問題意識が変わったように見えなかったからかもしれない。

彼らと明らかに対立する存在として、五実という現実世界の存在も出てくるが、彼女も特に現実と幻想のどちらかに強いこだわりを見せることはなかった。
そもそも彼女はまともに話すことさえままならず、現実世界と幻想世界の区別もきちんと認識できているか怪しかった。最終的には幻想世界に留まりたいと願うが、それもあくまで正宗ら人への愛情や執着という側面が強い。
だから、両者が衝突することもない。

最終的には、五実を現実世界に送り届けるという明確なゴールが設定されることで、物語は急激にエンタメらしい展開へと回収されていく。
ここの構図だけ取り出して見れば、閉塞した世界の住人が、自分には決して手に入らない未来ある現実世界の生を肯定するという展開なのだが、上記の通り正宗も五実もそれまでに現実と幻想、変化と停滞という対立関係に対してあまり苦悩や葛藤を見せてこなかったので、正直唐突感を覚えた。(葛藤がないのだから、本来の居場所であり、未来が約束された現実世界に送り届けようという結論は当然の選択にすら見える)


そもそも幻想世界といったって、よくある現実の嫌なところを消臭したものではなく、割りと現実世界そのままというかその嫌な部分をさらに煮詰めたような世界だったので、端からその対比は主題じゃなかったんだろうなと思う。(もしかしたらおじいちゃんのあのセリフは、この対比を示唆したかったのかもしれない)

上でも書いたが、一応最後に申し訳ばかりに、現実世界の住人と思われる学生のラジオメールに正宗が噛みつくシーンがあることはあるのだが、しかしその姿は一切描かれないのだから、まあそういうことなのだろう。
もし本当にそこをきちんと描きたかったのなら、むしろこの学生が幻想世界に迷い込んでいたほうがよっぽどわかりやすかっただろう。(あるいは、五実を正宗らと同世代にするということもありえたかもしれない)

そう考えると、そもそも幻想世界という設定自体がノイズのようにさえ思えてくるのだが、この設定は実はもっと別のテーマを扱うためのものだったと思っている。

そしてそのテーマこそが、おそらくこの映画が最も扱いたかっったものだろうとも。


親の欲望にふれた時

なぜ、幻想世界が必要だったのか。

その1番の理由は、子どもが“まだ子どもだった頃の親”と出会う、という構図を成立させるためだったのではないだろうか。

そして、五実が幻想世界における唯一の現実存在でありながら、幻想世界の住人と対立する存在にはならなかったこと。
正宗らと同じ世代ではなく、ずっと幼い年齢であったこと。
どちらも、彼女が現実世界の存在であるという側面よりも、正宗と睦実の子どもであるという側面に重きを置いていたことが背景にある気がする。

そんな五実は自分の世話をしてくれるまだ中学生の正宗と睦実を、実の親のように慕っていた。
しかし残酷なことに、五実は正宗と睦実が貪るように互いを求め合う姿を目の当たりにしてしまう。
非常に長い尺で描かれる生々しいキスシーンは、中学生の二人が互いの思いを不器用に確かめ合う青春の一幕でもあるのだが、その背景に二人の未来の子どもを配置するという、実に岡田麿里らしい演出によって爽やかさは消え失せ、一気にエグみを帯びたシーンに変貌する。
こうして五実は心に大きな傷を負うことになるのだが、まさにこれがこの映画でやりたかったことなのだろうと思う。

幼い子どもにとって愛を与えてくれる親は(とりわけ母親という存在は)、全能ともいえるほどの絶対的な存在として君臨する。子どもにとってその存在を欠くことは、ほとんど世界の崩壊にも等しい。
しかし、成長して自我が芽生えることで、親は自分のことを完全には理解してくれていないことに気づき、自分を満たしてくれない存在へと次第に変わっていく。
そして、さらに歳を重ねていくなかで、その親の不完全さの根底には嫉妬や欲望など、自分と同じような弱さや未熟さがあることを知る。
この大人の欲望は、正宗の母親と叔父の間でも描かれていたし、また、常軌を逸した睦実の義父にも人の愛情に飢えている様子があったことからも、この映画が描きたかったことの一つだろうと思われる。

親の不完全な一面を知って認めていくことは、子どもの成長にとって避けられないプロセスだろう。
そして、それをいつ頃どういった形で経験するのかは、人格形成に大きく影響する非常に重要な要素だとも思う。
しかしだからこそ、まだ言葉もまともに話せないような五実が、この年齢でこのような形でその疑似体験をしてしまうことは、あまりに理不尽すぎるような気がしてしまった。

同時にそれこそ、親子という強すぎる関係をある種の呪いとして捉えている岡田麿里らしさであって、毒の多いその描写が、クライマックスのエンタメ的な展開と同居しているのが、とても奇妙な味わいをもたらしていた。

エピローグとして、成長した五実がこの時代の記憶を良いものとして捉えていそうな描写があったことは、その意味で観客の不安に応えるものではあったが、さすがに飛躍が大きすぎて正直取ってつけた感じは否めなかった。
つまり、本当に岡田麿里は五実がこのように成長することを信じているのか…?ということなのだが、裏を返せば今はそう思えるようになったということなのかもしれない。


手放すな、欲望は君の命だ

この映画に対して、なぜ奇妙だと感じたのか。

それはこれまで見てきたように、思春期の子供の鬱屈とした感情、偽物の世界の真実といったテーマが見え隠れしながらも、結局それらは最終的に印象を弱め、親の不完全さとそれが子に与える呪いが前景化する、主題の掴めなさが大きかったのではないかと考えている。
そのクライマックスでは、そうやって前面に押し出した親の呪いというエグみを、爽やかなエンタメ展開に乗せて描くという演出の奇っ怪さもあった。

しかし、それでもクライマックスのシーンで感動できたのは、キャラクターたちが自分たちの終わりを意識した時に、大人も子どもも関係なく自分の欲望のために必死に生きようとする姿があったからだろうと思う。
この映画では、どんな状況でも(たとえ世界や自分が空虚な偽物にすぎないとわかっても)今の自分が欲しいと感じるものに向かって手を伸ばすことが生の本質だと訴えている。
それは未来の可能性に溢れた子どもだけでなく、人生を折り返した大人であっても同じことだ。そこから逃げ出して生きがいを求めることは難しい。

また、はっきりと表に浮かび上がっては来なかったが、彼岸の夏祭り、忘れ去られた土地の記憶、そこで懸命に生きた人々の姿という郷愁の要素も、生きることの無常観を想像させられて胸を揺さぶられた。

親子関係に留まらず、この欲望渦巻く終末世界の描写にも毒を盛ろうと思えばいくらでも盛れたはずだが、そうはならずにそこで生きる人々の姿が肯定的に描かれていたことが、素直に嬉しかった。
そこにはエンタメ作品として仕上げなければという商業上の理由だけでなく、不安定な世界で生きる人々に有機と希望を与えたいという思いがあったのではないだろうか。

だからこそこの作品に出てくるキャラクター達はみんな自分の欲望に素直で、それを隠そうとしたり、自分に嘘をつくといったことがあまりなかった。

そしてそのことは、私にとって個々のキャラクターへの感情移入を難しくしたが、同時に彼らが銘々無軌道に暴れまわる混沌としたエネルギーを生み出すことに成功した。

私が感動したのはきっと、この映画が生きる欲望を肯定する力に漲っていたからだろう。







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