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勉強

20220425

このところういさんが、いわゆる勉強らしきをしたがるようになった。ひらがなや漢字をはじめとした文字を書きたがったり、足し算や引き算なんかの数字をいじってみたり。

勉強をしていく中で受験アスリートの道に迷いこむことの困難は身をもって知っているから、我が子にそれをオススメしようとは思わない。

たぶんそれは妻もそうだと思うけれど、とはいえ、みずから勉強したいと言ってくることには何か喜びらしきもある。

それで、何だったら楽しくやれるかねえと、ういさんといろいろみてみて、すみっコぐらしの教材を買った。

晩ごはんを食べてお風呂に入るまでの間に、妻と娘と僕と3人で、机にならんで、各々の勉強というかワークをする。

妻と僕が娘をはさんで座って、そのつど娘の具合をみながら取り組む。

妻と娘とのやりとりをみている。

あすかさんは才能豊かに、もしくはその才能に任せて勉強していたんだなあ、と思う。

娘に教えようとする言葉のチョイスや身振りが、すでに数段上のことを理解してる人にむけたモノだと僕には映る。

僕は勉強らしきを苦手だと思ったことはないけれど、かといって特別できるやつだとも思ったことがない。

得意じゃないけれど勉強の点数は取らなければという強迫観念があった。

その結果、勉強脳のスペックの平凡さを、習慣や型、思考の形式で補おうとしてきた過去を自覚している。

たぶん、妻の幼少期は、僕よりずっと勉強が得意だったのだろう。妻が娘に教えている様子をみながらそう思う。これくらいでわかるでしょという前提が、勉学の才の多寡を物語る。

そして、天才天才と言われて育ったんだろうなとも思う。妻が娘に頻繁に「すごい!天才!」と言っている。

妻のお母さんが、幼少期の妻に「あーちゃん天才!」と言っている姿が目に浮かぶ。そして天才として称号にふさわしくなくなったら突き放す姿も。

親が子どもをほめてる。一見微笑ましい光景にみえるけど、不安にもなる。

娘が「私は天才でないといけない、褒められる存在でなければいけない」と思うようにならないだろうかと。

ほめるってことは一体どんな場面なら成立するのだろうか。上の立場の者が下の者をおだてて支配しようとするのと何が違うのだろうか。

念のために言っておくと、別に妻の批判はしていない。すでに「この間のアレ、こう思うんだよね〜どう?」と話はしてある。僕がおだてたりをしていないつもりの安全地帯から発言しているつもりもない。

ただ、親と子がむきあう上での、ほめる・おだてることを考えてみようとしている。

そしてどうせなら、子どもをほめるとかおだてるとかじゃなくて、子どもの一挙手一投足に感動できる我が身でありたいと願っている。

親が、子どもをうけとめ、素直に感動を発見できるかどうか。

きっとその感動が、どんな教えよりも、子どもを導くのではないかと勝手に信じている。

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