毒親
20220322
毒親という言葉が好きじゃない。
僕自身がアダルト・チルドレンいう、親との関係性にある種の困難を抱えているという自覚があった上で、毒親という言葉とは距離を置きたいと思っている。
それは、子どもにとって毒でない親はいないだろう、と思っているから。
親に対して毒なんて何を言ってるの!とかそういう拒否反応ではない。毒親って言葉を使うと、毒親じゃない親がいそうな感じに違和感がある。
子どもが生まれ育つということにおいて、親は常に毒として機能する。親が親として在るとき、それば必ず毒となる。というのが娘を育てながら思うことだ。
親のDVや厳しいしつけ、ネグレクトのような放置に限らず、子どものそばでの振る舞いすべてが、子どもをある方向に導いてしまう。
その方向性の善し悪しに関わらず、子どもの立場からすれば、強制的な方向づけとして、親の振る舞いはある。
親の生活、親の当たり前で子どもを染めあげていく。そう意識していようがいまいが、必ず毒として、親は子どもに相対することになってしまう。
子どものためを想ってるかどうか。親の“教育”が後々役に立ったかどうか。それらのことは、親が子どもにとっての毒でなくなることとは無関係だ。
結果的に、子どもから親への感謝の気持ちが湧きあがろうと、子どもに社会的な成功が訪れようとも、子どもからしてみれば、親は毒として存在していたことに変わりない。
生まれた瞬間から子どもの命の手綱を握り、育つ環境を強制し、思考や価値観・モノの見方を矯正する。
それが、悲しいかな、(子どもとの関係性の中の)親なんだと思う。
じゃあ、毒としての親はどうしたらええの、と自分で自分に問いたくなる。全員毒なら開き直ればいいのかというと、そこには断固として否がある。
今、僕が僕に言えることは、誠実であれということくらいだろうか。子どもと、そして何より、親である自分自身に誠実であること。
子どもにとって毒であるという責任を負いながら、誠実に生を全うする。
親にできることってのはそんなもんなのだろうと、娘の寝顔をみながら、ふとんの中で書いている。
毒としての親の元に子として生まれ育ち、毒親として子を授かる。その連鎖。
「お前らのためとは思わなえ そうじゃなくてお前らのおかげ」(ZORN『my life』)
親子ってやつは、生物としての不可避の業、愛憎清濁ごちゃ混ぜにまみれた関係となる。なってしまう。
だからこそ、よき雲として、よき風として、よき雨として、よき水として、よき温泉として、そして責任ある毒として、
子どもと対峙する、親でありたいと、みずからに切に願う。
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