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会えない時間が、愛育てるのさ。

『赤い長靴』江國香織 文集文庫

 本書は2005年に刊行された連作短編集の文庫版。結婚して十年になる妻、日和子と夫の逍三。子供はいない夫婦のお話。お話といっても取り立てて大きな物語があるのでもなく、ごく淡々と日々の夫婦の生活を描いている。各章ごとに連作の短編で構成されており、なんとなく物語めいたものにはなっていると思う。

 話はそれるが、コラムニストの酒井順子の夫婦と家族をめぐる『子の無い人生』というエッセイ本がある。女性の人生の方向性には、「結婚しているか、いないか」よりも、「子供がいるか、いないか」という要因の方が深くかかわってくる、というのがあった。つまり、子供の有無によって人生そのものが変わってくるということで、エッセイのなかではそういう夫婦は、既婚の「子ナシ族」とカテゴライズされていたように思う。

 この日和子と逍三もそういった「子ナシ族」の夫婦なのだ。子供がないせいか、十年たっていても落ち着いているは言い難く、ふわふわ漂っているようなそんな夫婦。そういった観点から読むと、なんて言うか、「子ナシ族」あるある、が所々見られる。夫婦で温泉旅行の際、仰々しいおひつや座椅子の前で、夫婦で向かい合って食べたりするのが、立派な夫婦みたいで恥ずかしかったり、(見知らぬ他人からお父さんとか呼ばれたりするときの気まずさに似ている)、昔の友だちが連れてきた子供が悪戯でトイレの洗面にはったシールを後に見つけて寂しくなったり、職場の同僚に「お子さんいないっていいですねぇ」と言われたり、などなど。

 もしこれが子供がいる設定だったなら、まったく違った話になっているだろう。夫婦ふたり、ということはつまり男と女、極端に言うと、夫婦の話である以上にこれは男と女の話であるともいえる。

 日和子はおっとりとした、くすくすとよく笑う、すこし世間ずれした感のある女性だ。日和子は言う。笑うことと泣くことは似ていると。なかなか本質的だ。対して夫、逍三は会社では部長だが、家ではだらしがない子供のような男だ。日和子の話もろくに聞かず、うん、とかああ、とかしか言わない。家ではろくに何もしない、昔の典型的な日本の男像という感じだ。当然、日常のなかでお互い考えの食い違いや、齟齬がある。そうしたふとした日常の齟齬を描くのはやはりこの女性作家は驚くほど上手い。

 詳しくは話さないが、タイトルにもなっている「赤い長靴」をめぐる話は、ほんとうに言い得て妙である。赤い長靴に象徴される夫婦関係の不穏。その齟齬について。

 でも、しかし齟齬だけではない。お互いがお互いを強く求めているのもこの夫婦なのだ。どちらも、友人や職場の仲間と飲んでいたりしながら、互いのことをふと考えたりするだ。いまここにあの人がいない、という不在がふたりを結びつけている。昔、「会えない時間が、愛育てるのさ」という歌があったけど、そういう想い。

 だから、ふたりともが、お互いがかまだ出会っていなかった頃の過去を思い出すとき哀しくまた淋しくなったりもする。あの人がいない、という不在感が夫婦を夫婦たらしめる、とでもいうのか。

 お互いが共にいる、ためにはお互いが居ないときこそが重要なんだと、再認識させてくれる。男と女がお互いを継続していくために、学ばなければならないほんとうのこと。半面教師として、また大いに共感をもって、この夫婦に学びたい。

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