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従兄の死はあらかじめ決まっていたのかーー死をめぐるいくつかの作品と記憶

従兄が亡くなった。

彼は四国のとある町に生まれ、生涯を同じ土地で過ごした。東京に生まれ育った私は夏休みや正月になるとその町を訪れ、短いときで1週間、長いと1ヵ月ほどその町で過ごした。

従兄はもう長い間、アルコール中毒と認知症を抱えていた。両親は亡くなり、実弟も東京で家族を持っていたため、彼は親が遺した自宅で一人で暮らしていた。何年も前に仕事ができなくなり、ここ数年は調子が良ければ自分で病院に通い、それができないときは自治体の職員が自宅を訪れて彼の様子を見る、という生活だったと聞く。近く(といっても田舎なので物理的な距離はかなりある)に住むわずかな親戚と、東京に住む私の親がいろいろな面で彼の生活を支えていたようだ。

従兄が亡くなる少し前、『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』(妹尾武治・著/光文社新書)という本を読んだ。著者の主張する「心理学的決定論」という考え方によれば、すべての未来は決まっているのだという。私がいま従兄に関するこの文章を書いていることも、従兄の生き方や死も、もちろん私のこれからの未来も。

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著者は本の冒頭で「この本はトンデモ本だ」と宣言しているのだが、ページをめくっていくと必ずしも冗談めかした内容でなく、むしろ様々な学問の知見が心理学的決定論を裏付けているように感じられてくる。説得力がある。何より最後まで読むと、実は本書は著者自身が過去に背負ってきた過酷な経験をきっかけに書かれたという事実が明らかにされ、胸に響いた。

従兄は私にとって「自分の知らない世界を教えてくれる年の離れたお兄さん」的な存在だった。きっと多くの人にはそのような存在がいると思う。小学生の頃の正月、従兄の家で寒さに震えながら夜通し映画を観たことがある(四国でも土地によって正月は凍えるほど寒い)。『猿の惑星』『ブレードランナー』『遊星からの物体X』……。びっくりするくらい小さなブラウン管テレビに映し出される、これまで見たことのない光景の数々に、小学生の私は小さくない衝撃を受けたはずだが、いまとなってはうまく思い出せない。映画を1本観終えて次のVHSをデッキに入れる前に、従兄は手作りのトマトソースパスタを私に食べさせてくれた。それまで食べたどのパスタよりも美味しくて、映画の内容よりもそっちのほうが鮮明に記憶に残っている。

やはり従兄が亡くなる数週間前、『頑張って生きるのが嫌な人のための本 ゆるく自由に生きるレッスン』(海猫沢めろん・著/大和書房)を読んだ。刊行は2014年。発売後まもなくこの本を購入した私は、自己啓発本というものが苦手だったこともあり(いまも苦手だが)、冒頭の数ページからその手の印象を感じたため読むのをやめてしまった。それから7年以上経って、ひょんなことから再び手にした本書を、今度は半日で読み終えた。小説家である著者は、かつて10歳以上年下の友人Kを自殺で亡くし、そのことをきっかけに本書を書いたのだという。20代でこの世を去った友人Kは、なぜ自ら死を選択したのか(心理学的決定論の立場から言えば、その選択すらあらかじめ決まっていたことになるが)。友人Kが死なずともいいと思える生き方があるとすれば、それはどんなものか。著者は友人Kの記憶をたどりながら、ゆっくりと考察を進めていく。

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著者と友人Kと同じく、従兄と私も年齢が10歳以上離れている。親戚関係でなければ、きっとどこかで出会っても仲良くなることはなかったと思う。果たして従兄も「頑張って生きるのが嫌な人」だったのだろうか。いまふうに言えば生きづらさを抱えていただろうし、従兄にとってこの社会は面倒事の多いものだったはずだ。それでも従兄は、私よりもはるかに豊かな知識と好奇心を持ち、この世界の面白さを理解していたように思う。「頑張って生きる」タイプでは決してなかったが、自由に生きることを知っている人だった。

忘れられない記憶がある。たぶん自分が小学生のときなので、今から30年近く前になる。従兄は「この本にはな、いろんな裏ワザが書かれちょるんよ」と笑いながら、見るからに怪しい一冊の本をめくった。そして、その怪しい本に書かれていた「金のエンゼルと銀のエンゼルを見分ける裏技」を試してみようと言って、近所にあるスーパーマーケットへ私を連れて行った。その本によれば、エンゼルのついたチョコボールは、パッケージに印刷された「くちばし」という文字の位置が、通常のそれと少しずれているのだという。スーパーマーケットに並ぶチョコボールの箱を見比べてみて、私には正直、その違いがわからなかった。けれども、従兄が購入した5箱のチョコボールのうち、たしか2~3つにエンゼルがついていたから、かなりの高確率で従兄は当たりを見抜いたことになる。

面白い人だった。決してとっつきやすいわけではなく、存命だった頃の祖母(私と従兄の共通の祖母)とは気が合わず喧嘩してばかりだったし、自分の両親との関係も良好ではなかったようだ。飲食店を営む友人に誘われて料理を作ったり、パソコンの知識を活かして人に使い方を教える仕事などをしていたようだが、おそらく会社員として組織に属した経験はなかったと思う。他人と関わるのは不得手だった。それでも、抜群にユニークな人物だったのだ。

従兄の亡くなる数日前、映画『空白』(吉田恵輔・監督/日本/2021年)を観た。この映画もまた、死をめぐる物語だった。主人公の充(古田新太)は、それまで無関心だった娘が事故死したことで、突然、昨日までとは決定的に異なる日常を生きざるを得なくなる。それは他の登場人物たちも同じだ。誰も彼も、人の死という過酷な現実を目の当たりにして、それまでと同じ日々の延長線を進むことはできない。その意味で、死から始まるこの映画には、どこまでも救いがない。しかし他方で、たとえ救いがなくても、人は人生を送らなくてはいけない。生活を営まなければならない。そして、人が人として生きるために必要な、ささやかな希望や優しさは、必ず他者からもたらされる。そんなことを教えてくれる映画だった。

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(C)2021「空白」製作委員会

3年か4年ほど前だろうか。何年かに一度、法事で顔を合わせる以外にほとんど接点のなくなっていた従兄から、突然、電話がかかってきた。従兄は、私の記憶にあるよりもだいぶたどたどしい話し方で「いますぐ果物を送りたいので、住所を教えてくれ」と言った。彼の意図がわからず戸惑いつつも、住所を伝えると、数日後に豪華な果物の詰め合わせが自宅に届いた。その数ヵ月後、家族で旅行に出かけた私は、旅先で従兄のことを思い出し、その場で電話をかけて住所を尋ね、果物のお返しにと旅先の名物である菓子を送った。その電話で何を話したかは忘れてしまった。たいした会話はしていないだろう。従兄と直接言葉を交わしたのは、おそらく、それが最後だった。

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