死への不安とPTA

反復、分析、予測、理論、応用という行程を経て、人間の知識というのは基本的に扇状に広がって行くものと捉えている。自分自身が何らかの論系に所属しているような場合はその体系にそって自分の論点が妥当かどうかという立証が必要なこともあるだろうけど、必ずしもそれが必須だとは思わない。人間の論考というのはどこまで行ってもある種「思い込み」の域を出ないものだ。
そのように自分の知識を広げて行くということは、それだけ扱える言葉も増えて行くということでもある。自分に対して起こる色んなことに対して以前であればよくわからなかったことでも、今では「なるほどそういうことだったのか。」という具合に言葉にして一応納得させることが出来るという風に。
このような人間の知識の広がり方をバートランド・ラッセルは山から湧き出た水が大河になる様子に例えたりしている。そしてそれが河口のごとく広がりを見せた暁には「死に対する恐怖」というのはほんの些細なことでしかないらしい。ラッセルのように人生をそのまま知性に捧げたような人であれば、「死ぬ」ということは唯一「休息する」ということなんだろうか。何か気になり出すと考えに考え続けてしまう性分の自分はこれからの人生もそのように考え続けるのだろうから、それはそれだけこれからも知識を拡張させて行けるのだという反面、「これはどこまで続くのだろう」という一種の不安にかられる。そのような不安にかられた時に、ラッセルのこのような言葉は僕に一握の安堵を与えてくれる。
その一方で、自分はこれからも色々なことを考え続ける中で、これはその人生の終局に近い時なのだろうけど、その膨らみに膨らみ続けて蓄えられた自分の知識をもう一度シンプルなものへと還元出来たら良いとも思っている。「膨大なものをシンプルなものへ還元する」という表現が曖昧なので具体的にどういったことを指すのかということは書いている本人もわかっているうようでそうでないような心持ちだが、ようは花瓶に様々な花を盛るのではなく、選びに選んだ一輪の花を添えるようなそんな心持ちに辿り着きたい。自分で足して足して足して築いてきたものから省いて省いて省きたい。これを仏教では断捨離というのか知らないが、そういう心持ちに近いのかもしれない。

そんなことを考えながら、自分にとっての「仕事」ということを考えてもいる。自分にとっての今の仕事とは、もちろん生計を立てる必要性にかられてしている部分もあるが、精神面においては自分が考えていることを「主」とするならば言葉という「客」に置き換えさせてもらうという意味で精神の釣り合いに大きな貢献をしてくれているように思う。誰もが仕事に対してこのような実際面での必要性と、精神面での寄りかかりがあるとは思うけれど、さて自分は、(実際面での問題がなかったとして)今の仕事をきっぱり辞めてしまえばやはり精神面での不安定さが生じるのだろうか。それとも今とは違った形で考えていることを発露する場所と方法を見つけるのだろうか。

この春からさっそくPTAの役に入ることになってしまったのだけれど、周りを見渡しているとこういった活動は「○○との両立」が非常に大きなキーワードになるらしい。例えばこういった活動が「家庭と両立出来るか」とか「仕事と両立出来るか」とかいった具合に。
これは私の中にいる天の邪鬼がそうさせるのだけど、今こんな妄想を抱いている。
自分が今後PTA会長に立候補することは無いと思うが、もし自分を推薦するような人が現れたとしたら自分はそれをすんなり受け入れて、今の仕事を辞めようかと。

何かにつけて「○○と○○の両立」ということを言っている人というのは最早その「両立」することに対する最低限の善悪を把握しようともせずにその言葉自体がファッションになってしまっていると思っている。そうするものだと思い込んでいる。個人的にはタピオカドリンクに並んでいる人と変わらない。

そんな雰囲気の中で、「私は両立しない!」と叫んでみたい。

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