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こころの形と礼の型


1.「型」による教育

何かを作ったり練習したりしているときに、それが「多少は人様に見せられるかな」というギリギリの合格ラインを超えたところで、「ようやく形になってきた」などという言葉を口にすることがあります。

それまでは、パッと見ただけでは未だ何物とも呼べない正体不明な覚束ないものだったのが、ようやくその輪郭がハッキリして何某かの気配を感じさせるようになってきたときに、私たちは「形になった」とそう言うのです。

昔から、そのような「形(かたち)」を作り上げるために、「型(かた)」というものが使われてきました。

身近なものでは「たい焼き」というものが一番分かりやすいかも知れません。たい焼きの「型」に生地を流し込んで、そこにあんこを乗せ、丁寧に焼き上げることで、たい焼きという「形」を作り上げる。

私たちは「型」があるおかげで、初めてその「形」を作り上げた人ほどの苦労や修練をすることなく、比較的短期間でその「形」を再現することができるようになるのです。

それは人が何かを学ぶ際にも使われる方法で、何かを学ぶときに初めに身に付けるべきものとして「型」を教わることがあります。

武道や芸事などはその典型で、まさしく「型による教育」が行なわれる世界ですが、世の中を見渡してみれば、手紙の書き方や電話の応対、体操の仕方から車の運転方法まで、ありとあらゆるところで、いわゆる「型」による学びが行なわれていると言えるでしょう。

たい焼きが「型」を通じてたい焼きという「形」となっていくように、私たちも大人に成長する過程で、さまざまな「型」を反復稽古しながら、大人としての振る舞いを身に付けて社会に出ていくのです。

2.「型」は空っぽな器

ですが先ほども書いたように、ただ「型」を覚えて使えるようになっただけではまだ「形」にはなっていないと、昔の人は考えました。

つまり「型(かた)」が「形(かたち)」になるためには、「カタ」に「チ」が加わらなければなりません。そこにはまだ「チ」が欠けているのです。

この「チ」という語は、古くは霊力のことを表わしました。

血、地、知、千、治、茅、乳、父…。

「チ」のつく語はいろいろありますが、それらはみなどこかエネルギーの源のようなものを指していて、「チ」と呼ぶとき古人はそこにある種の霊力を感じ、敬意を込めてその音を口にしたのです。

ですからおそらく、古人が何かに対して「ようやくカタチになった」とつぶやいたとき、外側の物質的な側面だけを見ているのではなく、そこに宿った霊力のようなものを感じて、その言葉を口にしたのだと思います。

「型」というのは「器」であって、その本質は「空っぽ」であることです。

「型」は空っぽであるゆえに、そこにどんなものでも受け容れることができ、そこに入った未だ形を成さぬ覚束ないものに「形」を与えるわけですが、それ自体はあくまでただの「型」であるに過ぎません。

ですから、ただ「型」を覚えただけでは、やっぱりまだ空っぽなのであって「形」にはなっていないのです。

たい焼きの「型」だけがそこにポツンとあるようなもので、それは結局まだ何物でもないのです。

「チ」とは古来、霊力のことだと言いました。古人は、肉体に宿り指先にまで張り巡らされて動きを作り出す、躍動するエネルギーのようなものをそう呼んだのです。

それはほとばしる衝動であり、湧き起こる生命です。それは他者と関わり交流しながら絶えず変化し続ける有機的な力です。

「型」そのものはただの空っぽな器に過ぎませんが、反復稽古しながら、そこに多くの有機的で生命的な力である「チ」を注ぎ込んでいくことで、初めて「形」と成ってゆくのです。

3.感謝の「型」

道徳の教育などで、『心を込めて”ありがとう”と言う』というようなことを言われることがしばしばあります。

何となく「その通りだな」と思って素通りしがちな言葉ではありますが、私はいつも違和感を感じています。

まず「心を込める」という言い回しですが、「心ってそんな風に意識して動かしたり込めたりできるものだったっけ?」という疑問。どちらかというと何かに刺激されて自ずと生じるものであるような気がするのですよね。

そして「心の込もっていない”ありがとう”はダメなのか」という疑問。

この疑問は当の子ども自身も抱えることになりますから、”心を込める”ということがよく分からなければ、「ありがとう」と言うたびに「心も込めずに”ありがとう”を言っている自分」というものを突き付けられることになるでしょう。

真面目な子なら、そんな欺瞞に充ちた自分の身振りに思い悩んでしまうかも知れませんし、もう少し合理的な子なら、ハキハキと振舞うことが心を込めることだとパッと結論づけて「これで良し」とするかも知れません。

う~ん…それで良いんですかね? 何かズレを感じてならないのですよね。

私は「感謝の思い」というものは、いろいろなことを経験した後に、ゆっくりと育ってくるものだと思っています。

ですからそういう意味では、子どもには「ありがとう」という言葉の意味が、まだよく分からないのではないかと思うのです。

まあ「分からない」と言ってしまっては言い過ぎかも知れませんが、私自身の話で言えば、「頭を下げる」のではなく「頭が下がる」という身振りが自然と現われて、「ああ、本当にありがたいんだ」と自分自身にビックリしたのは、二十代も半ばになってからのことです。
(しかも相手は人間でもなく、滝行して出てきた後の”滝”に対してでした…)

人間の子どもは、他の動物たちと比べてもずいぶん未熟な状態で生まれてきますから、長い間まわりの大人たちにいろんなケアをしてもらいながら育ちます。

でもそれらはどれも、子どもにとっては「当たり前にある」ということが自然なことであって、そこに「ありがとう」という思いが生じないのもごく自然なことであるでしょう。

自分がどれだけまわりに愛されてケアをされながら生きているのか、子どもは知らないし、気づかない。そしてそれこそがまさしく幸せなことの証左だと思うのです。
(※関連note記事:『愛は振り返って初めて気づく』)

ですから子どもが「ありがとう」と言うのに、「心を込めて」とか「相手に感謝して」とかそんなことを要求するのは、むしろ何か余計なことをしているような気がしてならないのです。

4.「型」に護られ「形」と成ってゆく

「ありがとう」と言うのは、あくまで形式上の返答です。

ですから「誰かに何かをしてもらったら”ありがとう”と言う」という、ただそれだけのことで良いと思うのです。

それはつまり「感謝の型」です。
「型」として正しく行なえば、それで良いのです。

ですから中身は空っぽです。空っぽで良いのです。空っぽが良いのです。

そうして「感謝の型」を反復してゆくうちに、中身となる「チ」がその「型」によって醸成され充ちていって、やがていつか「感謝」というものが心の中にその「形」を成してくるのです。

それが「ありがとう」が「ようやく形になってきた」ということです。それは私たちが想像するよりずっとずっと先のことかも知れません。私は二十余年かかりました。

そのプロセスにおいては、「ありがとう」という言葉の中身が、つまり感謝の「チ」が、自ずから生じて充たされ形を成してゆきます。無理やり急いで”込める”のではなく、ましてや誰かに”込められる”のでもなく。

「ありがとう」という言葉は、何気ないありふれた言葉でありながら、それくらい遠い射程を持った言葉だと思うのです。

「型の教育」においては、稽古をする者が安易にその「型」の中身を定めてしまうことを、非常に強く戒めます。「つまりはこういうことですね」などと安易に解釈しようものなら、師から烈火の如くお叱りを受けることになります。

その逆もまたあって、「つまりはこういうことです」などと安易に「形」を与えてしまう師匠は、弟子の学びを止める最悪の師となってしまうのです。
(※関連note記事:『師匠を持つ』)

現代は、子どもに「形」を急いで求めすぎな気がします。そしてまた与えすぎでもあるような気がします。

それは子どもに早い自由を与えているようで、早々に未熟な形で固めてしまうことになり、結果、本来の自由から遠ざけているのかも知れません。

「型」とは自由を縛る枷のようでありながら、じつは内部に限りない自由を湛えた器なのであり、急いで「形」を求めようとする外部から、その自由を守ってくれる防壁でもあるのです。

幾度となく巡る季節の中で、おのずからの「形」を成すに至った「自由な感謝」は、強く、優しく、深く根を張っているので、揺るぎません。

そんな「強い感謝」に支えられて生きていけること。それはとてもとても幸せなことだと思います。

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