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より大きな何かのために

ライアル・ワトソンの『未知の贈りもの』という本に、インドネシアの夜の海でのエピソードが出てきます。


真っ暗な夜の海に船で浮かんでいると、さまざまな色に変化する不思議な光のパターンが現われ、やがて船をすっかり取り囲んだ。

それは無数のイカの群れだった。

その光は、船のデッキを歩く人の動きに沿って波打ったり、一人が咳をすると驚いたかのように脈打ち始めたり、まるで全体が一つの生命体であるかのように、デッキ上の人間の動きに合わせてセンシティブに反応していた。

その不思議な光景に包まれながら、ワトソンはある疑問に思いを馳せる。

『イカの眼球は非常に高性能で、光学的には膨大な情報量でもって世界を映し出すことができるのに、それを処理すべき脳はあまりにも単純で原始的だ。そのアンバランスさはあまりにも不自然だ』と。

まるで「高価な望遠レンズ」を「靴のあき箱」にのっけているようなイカの身体と、目の前で繰り広げられている神秘的なイカたちの光のダンスから、ワトソンの頭にふと一つの考えがよぎる。

『イカは個体を超えたより大きな何かのために見ているのではないだろうか。イカは海洋の目であり、地球の感覚器官なのではないか…』


ざっくりまとめると以上のようなお話なのですが、なかなかロマンチックな考え方ですね。

ライアル・ワトソンは、要素還元主義に陥りがちなサイエンスを超克しようとしたニューサイエンスの旗手ですが、その文章は半世紀近く経とうといういま読んでも果てしないロマンをかき立てられます。

イカたちは高性能なレンズを持って海の中を自由自在に泳ぎ回っています。そして海に浮かぶ珍しいものを取り囲んで、その一挙手一投足に反応するように自ら発光しながら、それが何なのかジッと見つめているのです。

イカたちは考えません。そのような高次な脳神経を持ちません。ただひたすらにその身に持て余すような高性能なレンズでもって世界を観察し続け、そしてセンシティブに発光しながら反応するのです。

う~ん…確かに不思議なことですね。
ホントにイカたちはいったい何をしているのでしょうかね?
そして何のために、そんな高性能な目を持っているのでしょう?

私たち人間の持つ眼球もいわば高性能なレンズですが、眼球だけを取り出してみれば、光学的な刺激の高度な情報処理をする器官はありません。レンズから入って網膜で受け止められた刺激は、そのまま外部である脳へと送られるのです。

その情報はそれだけでは光の洪水のような状態ですが、脳内できわめて高度で複雑な情報処理をされることで、私たちの意識に「意味のある立体的な像」として変換出力されるのです。

つまり私たちの眼球も考えてはいません。
見えているものが何なのかも知りません。
受け止めたものをただ脳という外部へ送るだけなのです。

いわば眼球も「自身(眼球)を超えたより大きな私」のために、高性能なレンズを働かせて世界をただ見ている、と言えます。

先のワトソンのアイデアも、そのような考えをどんどん拡大発展させていくと、ぼんやり見えてくる光景です。

その「拡大発展していくとぼんやり見えてくる光景」というのが、何ともロマンに溢れていて、いろいろかき立てられてしまうんですよね~。

それで、もし仮にそれが本当にそうだとしたら、地球上のその他の生物にもそのような器官を見つけることができるはず。この世界には光学的な情報以外にも、無数の情報に満ち溢れているのだから。そんな空想も湧いてきます。

すると「ん…? じゃあ人間は?」と、そんなことを思ってしまいますね。

人間は何をしているの…?
人間が備えているその身に余る器官とは…?

…となるとそれはやっぱり「脳」でしょう。

私たち人間は、明らかに脳のその能力を持て余しています。生存戦略上、あきらかに必要の無いことまで私たちは考え、空想しています。とんでもない考えに振り回されて、身を滅ぼすことすらあるくらいです。

私たち人間が「個体を超えたより大きな何かのために」、その身に余る器官である脳を持って、ひたすらに思考活動をしているのだとしたら…。

私たち一人一人の考えていることはただの個別な思考なのではなく、群れの中の一匹であり、大河の中の一滴であり、その総体を構成する一要素なのだとしたら…。

まあ、そんなことは証明のしようもないただの空想です。ただの空想ですが、でもロマンがあります。そして勇気づけられます。

つまり、私たち一人一人が「正しいことを考える」ことは、決して無駄なことではないのだと、そう思うことができるからです。

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