一人稽古について

人間とは何か

人間とは何か、それをずっと探ってきました。たまたまそんな人生になりましたが、人間とは何か、という答えのないものを探している人は案外多いのではないか、と思います。

哲学や宗教はもちろん、○○道みたいに、結果的に人間とは何か、という問題に行きついてしまうものに関わる人は多いです。
もちろん、はっきりと自覚をしている人は少ないでしょう。
ただ、どんな生き方であっても、無意識のうちに人間とは何か、という壁にぶつかるのではないでしょうか。

問題はぶつかった後。
私はたまたま、それを探る道がある事を知れました。
そして、その方法が自分にも出来るものだ、と踏み出す事が出来ました。
しかし、これはとてつもない幸運だったように思えます。

何かを学ぶ時、大抵はゴールがあり、それを噛み砕いてもらいながら、学びを得ていきます。教えてくれる人がたくさんいて、見つけるのに苦労しない時代になりました。
ゴールの有る技術的なものならそれでいいかもしれません。しかし、人間とは何か、というのは外に答えのある問題ではありません。
何かを得ても、それが元で新たな問題が生まれてきます。実に、厄介な問題なのです。

私はそこに「一人稽古」という探り方を得ました。もう、30年近く前の話です。
以来、ずっと、一人で向き合う事によって、人間とは何か、と考え続けています。

私が出会った探索方法は武術を手掛かりにしたものでした。
見かけ上は平和も増えましたが、根源には弱肉強食、戦いからは逃れられないのが人間です。
お互いの間に生まれる衝突をいかに受け入れていくか、それが私の稽古です。
衝突はどの社会にもあるものです。実践を通して、衝突を学び、力を得ていく事が得意な人もいるでしょう。しかし、私には無理でした。
臆病な性格が原因かもしれませんが、どうしても、心が先に、衝突を避けてしまいます。

避けられる衝突ならばいいですが、いずれ、何かにぶつかり、心揺らされる事は間違いありません。
特に、人間には老いがあり、避けられない現実として死があります。死を目前にした時、心穏やかにいられるかどうか、臆病な私はずっと、それが気になっていました。

ネガティブな要因からでしたが、結果的に人生の大半を人間とは何か、という問題に向き合う事が出来ました。
そして、今、信じられないような生き方が出来ている事に驚いています。その生き方こそ、一人稽古です。
人それぞれ、生きる意味は違うはず。どう生きるか、を問う前に、私という人間は何なのだ、これを知らなくては始まらないのではないか、と思います。

この世とは何か

一人稽古によって少しずつですが、人間とは何か、という事がわかってきました。
よく、この身体は乗り物だ、という言葉を聞きます。魂がこの身体に入り、現実という世界を体験するそうです。
その乗り物自体の理解が深まれば、そこからやっと、この世という外が見えてきます。

100年ほど前にアインシュタインが相対性理論を発表しました。
当時専門家でも難解であった理論は今日、映画や漫画にも自然と取り入れられるようになりました。
また、その理論はスピリチュアル的な世界を伝える時にも喩えとして使われたりしています。

不勉強な私は理論の詳細はわかりませんが、以前、印象的な説明を聞きました。
それは「時間と空間は同じものだ」という事です。
時間と空間、併せて100%であり伸び縮みをしていると知りました。頭でわかっても、実感はなかなか得られない事です。

別物に見える空間と時間。一方は広がり、もう一方は流れます。
空間は目に見えても、時間は流れ続けて止まりません。
この性質が違うように見えるものが同じものとして関係を持っている、それを聞いていたからか、身体を探る際に自然と、時間と空間も合わせて考えるようになりました。

人間とは何か、さらにそれを探っていけば、人間が存在するこの空間、時間とは何か、も考えなくてはならなくなったのです。

人は考える存在

材料を手に入れると、ついつい考えを拡げてしまうもの、それも人間の性質です。
今、私という人間がここにいる。
そして、その人間は内臓を持ち、骨、肉、皮膚がそれを守り、形作っている。
さらに、その肉体のどこかに魂という存在を証明するのが困難なものもあるはずだ。
こんな事を考え、一人稽古をしてきました。

骨を見ればそこに可動域が見つかります。
肉を見れば力の流れを感じる事が出来ます。
皮膚は外との境界線を作り、痛みを生み出します。
手掛かりになる教えもいくつかありましたが、納得を追求していくと、結局自分でそれらに意味をつけなくてはなりません。知識を得て、自信をつけ、それをまた手放す。そんな繰り返しが私の一人稽古でした。

肉体を境界線とした私が見つかると、その外に空間と呼べるものが広がっている事がわかります。
その空間には空気が満たされ、それもまた、この身体を動かす時に役立てられるものだとわかりました。

例えば飛行機。車であれば空気抵抗をいい加減に考えても動く事は出来ます。しかし、飛行機となったならいい加減な空気抵抗では飛び立つ事すらできません。
身体にも同じ事が言えます。
ただ適当に過ごすだけなら空気抵抗は気にしなくてもいいでしょう。しかし、大空へと意識、思考を飛び立たせるためには空気との関係を理解しておかなくてはならないです。

この時、肉体は空を飛びません。
人の肉体はそのようには出来ていないのです。しかし、意識は大空へと飛び、さらに大気圏を超え宇宙にまで飛び出す力を持っているのです。
これこそ、考える力。人の持つとてつもない大きく広い世界です。

受験勉強のように期限付きという状態で合格だけを求めるのなら、思考するよりも、そのコツを聞き、先生の言うとおりにした方が結果は得られるかもしれません。
多くの学生を得て、何千人、何万人を指導する時に、個別に向き合うよりも機械的に指導をした方が企業としての業績も上がるでしょう。ただ、それではダメだ、というのも知られてきました。
しかし、ダメだとはいっても、その学び方に対する何かがなく、仕方なく惰性で集団での学びを続けている、そんな人も多いのではないでしょうか。

一人稽古は一生ものです。
生きていく間に出会う事、それを理解し、受け入れ、成長していくための武器です。
学ぶとは何か、これもまた、人生において考えておきたいものの一つです。
そして、身体を探る一人稽古なら、自然とそれを探る事が出来てしまいます。
身体に見つかる「持っているもの」。人は持っているものをどうにかして生かそう、と思ってしまうものです。
これは何とかして楽をしたい、という思いがあるのかもしれません。
人は弱さを武器に進化をしてきました。生き延びていくために試行錯誤が自然と現れ、自分にとってより納得のいく方法を考え始めてくれるのです。

答えのある問題に向き合えばついつい、答えを探してしまいますが、人間、空間、時間、思考とは何か、答えのない問題ばかりが身体を探るとぶつかってきます。
忙しい現代で答えのない問題に向き合うのは大変かと思いますが、それでも、最初の一歩を踏み出せば、自然と勝手に成長する世界へと連れて行ってくれるもの、それが身体を手掛かりにした一人稽古です。
一人稽古を選べば、外に頼る事が減っていき、自然と「考える」という機会を与えてくれるようになっていきます。

人は成長する存在

人は成長する生き物です。
いつまでも欲があり、もっともっとを求めます。
その巨大な欲望は心を苦しめる事もあるでしょうが、それは自分ではどうしようもない部分に向けてしまう時です。
身体に求める欲は必ず、何かを返してくれます。大きな欲を持てば持つほど、こんな世界があったのか、と新しい世界を見せてくれます。

一人稽古を始めた時、私の欲は「この手を上げたい」というものでした。
今もその欲は変わっていません。
どんな状況であっても、この手を自由に楽しく、軽やかに上げたい、そう思っています。
若い頃は目の前の相手が敵でした。具体的にこの手を掴まれ、押さえつけられる。それを何とかしたい、というのが欲でした。
この時、筋トレだけではなく、身体を理解するという道を辿れば、無数の上げ方がある事がわかります。
すでに持っている力を自覚する、これにより、努力という鎖から逃れる事が出来たのです。

歳を重ねて老いてくると、敵は生身の人間ではなく、世間や仕事の圧力、空気に変わります。また、老いによって生まれる不安定とも戦わなくてはいけなくなりました。
しかし、私は困りませんでした。すでに一人稽古の楽しさを知っていたからです。困ったならば、そこには必ず不自由になっている身体が見つかります。心にどんな思いが湧いていたとしても、それは横に置いておき、とにかく、身体を動かせる方法は無いか、と探ったのです。

細かく探れば、ちゃんとそこには困難を乗り越える主役がいました。
唇なんかは特にそうです。唇を力ませず、ふわりと浮かし、飛ばしていく。これにより、空気や老いによって動かなくなった身体が動き始めます。
身体が動けば心も動きます。これは心身一如の働き、自然と困っていた私は消えて、いつも通りの一人稽古を楽しむ自分でいられるのです。

目的があるわけではありません。目標もありません。ノルマだってありません。ただ、毎日を淡々と生き、そこに見つかる身体を探る。これが私の一人稽古です。
山に一人籠って穏やかに過ごす、というのではありません。
ネットを使い、そこで次々に新しい情報を得てしまう時代です。人とのつながりもどんどんと増えていきます。外の世界で一人でいる事はむしろ贅沢、いや、不可能な時代です。

そして、ネットで見つかる情報は嬉しい情報ばかりではありません。心揺らされる事は多いです。
しかし、こんな時こそ、身体の観察。一人稽古の出番となります。

現代は仕事が大切な時代です。
他者の要求に応え続ける、それが仕事です。
自分の思いとは違う事もしなくてはなりません。こんな時にも一人稽古は有効になります。
心に納得いかない選択をしなくてはいけない時もあるでしょう。この時、他者にはわからない苦しみが心に生まれています。
その苦しみは誰かに任せて何とかなるものではありません。
身体を探り、まず身体を整えれば自然と心が落ち着きます。信じられないと思いますが、考えもしない解決方法を身体が与えてくれるのです。

今、出来ない事、困った事、苦しい事、そんな世界にいるならそれは一人稽古へと入っていくチャンスとなります。
人は必ず、成長します。そして、社会というこの世だって成長をしていくのです。
変化の多い時代となりました。世間も変わるが、それ以上に私も成長していく、成長できる、と自信を持って生きていけたならきっと、人生はより楽しく、充実していく事でしょう。
その入り口こそ、一人稽古なのです。

一人稽古だけど、一人じゃない

一人稽古、と何度もお伝えしていますが、実は一人というのは一人ではありません。
一人稽古は自分と向き合い、身体感覚を手掛かりにして、言葉を生み、納得を積み重ねていくものです。
この時、手がかりにするものが「衝突」。そしてその衝突は他者が与えてくれるものであり、たった一人でいては何も得られない事になります。

ですから、一人稽古を勧めたいのであれば、積極的に世の中に出て、他者とぶつかる経験を重ねるのをお勧めします。
ただ、私はそれが苦手でした(笑)。
それでも私の中に残っていた過去の経験が十分一人稽古の材料になったのです。

もしかしたら未来を夢見る事も稽古になるかもしれません。
今まだここに無いものを想像した時、身体は変わります。ワクワクとエネルギーに満ちるかもしれませんし、どうせダメだろう、と始めてもいない事に落ち込む事もあるかもしれません。
こんな未来の事も、身体には今として現れてくれるのです。

落ち込んだならば、そこに見つかる身体を探り動かしていく。すると、気持ちは身体に引かれ、少し変わりだします。
これらは「慣れ」によってわかる事です。そして、慣れを活かすためにはどうしても、時間の力を借りなくてはなりません。
そして、一人稽古の一番のメリットは、この時間を最大限に活かす事が出来るという点です。
仕事の時間も、日常生活も、寝ている時だって、それらは経験。心が動き、身体に変化が現れます。その変化を観察するのが一人稽古です。

小学校から教わり続けてきた私たちにはちょっと難しいですが、それでも、身体はここにあります。経験をずっと、積み重ねて、この身体を作ってきてくれました。
ちょっとだけ、その身体を観察する時間を作っていけば、きっと、身体の声が聞こえてきます。
ちょっと聞こえると、それが呼び水となり、また新しい感覚に気づくはず。
多くの人が組織の中にいて、勝手に見つかる感覚を言葉にするのには難しい状況なのはわかっています。
しかし、それでも、やがて来るのは、自分だけの時間と空間。
老いと死は必ずやってきます。ちょっとそこを想像すれば、きっと、一人稽古を始めてみようか、というきっかけをもらえるはずです。


衝突から逃げてはいけない

一人稽古は衝突の研究です。
日ごろ、私たちはたくさんの衝突を得て生きています。
ただ、その無数の衝突を無意識が表に出さないようにしているのです。

今、スマホをもってこの文章を読んでいるとします。
この時の姿勢はどうか?ちょっと無理をしている場所はないか、と探れば必ず、どこかには衝突が見つかります。
医療を得意とする人なら、それを力みとして見つけ、ほぐしてくれます。
気づかなければ気づかないままでもいいのではないか、と思うかもしれませんが、肉体は有限なものです。いつか、我慢の限界がやってきます。

もちろん、その限界を超えた時にそれを探索をすればいいのですが、その際、大前提として、「その衝突を認める」という気持ちが必要になります。
衝突をまさかなものとしてみてしまうと、どうしても、心がビックリとしすぎてしまいます。
小さく、緩く、身体に衝突を探していく。これを行うのに、日常生活ほどぴったりなものはありません。

箸を持ち、茶碗を持つ、この時、どう持っているんかなぁ、と探る。これは立派な一人稽古です。
また、気に入った服、アクセサリー、道具を選ぶ。これもとてつもない一人稽古となります。
自分の何かが喜んでいる、それを探してみたなら、それは身体の声を聴く稽古そのものになります。

ただ、この時、成果もどうしても考えてしまいます。この成果にふりまわされないようにする、これは気を付けてもらいたい事です。

成果の魅力に注意をする

身体の声を聴く、とした時に、成果がもたらす喜びに気を付けなくてはなりません。
武術ですから、戦いの話をしますが、襲われ命が危うい、となった時、目の前に強力、強大な武器が有ったとしたなら、それはもう、とてつもない安心を与えてくれるものでしょう。
心が喜べば、身体も喜ぶ。この選択に間違いを見つけるのは難しいものです。

ただ、安易にその武器に頼ってしまうと、武器そのものが持つ影響がいずれやってきます。
今、戦争は核兵器を最終ラインに置いた戦いをしています。
一度核が使われたなら、そこから生まれる報復連鎖により、この世界は滅ぶ事になりかねません。
核という強力な武器は多くの国家が求めています。ただ、その結果が、今このありさまです。おおよそ、安心がここにあるとは言えません。

人から離れた武器はそれぞれに意志を持ったように暴れ、この世界を動き回ります。
大きな成果は魅力です。出世をしたり、大金を得たり、高度な医療での健康も魅力です。
ただ、その結果、外にばかり頼りを置いてしまう事にならないだろうか、ちょっと考えておきたい事です。

先に老いと死の話をしました。
強力な武器により目先の死は逃れられても、いずれ来る自然な死からは逃れられないのです。
多くの人が成果を気にして、大きな成果を約束して商品を作っています。
それがビジネスとなり、人々はさらなる成果を求めています。
まぁ、これは仕方ないのでしょう。長く苦しく、不便な時代を私たちは生きました。それがこの100年、急速に変わり、この世を天国と思える道も見つかったのです。これを楽しみたいと思うのも当然です。

ただ、やはり、昔ながらの死はあるのです。
だからこ、やはり、今こそ、一人稽古だな、と思うばかりです。
便利で平和で、武器もあり、安心。しかし、それは全て、外にあり、私を助けるものです。
それらは自然に生まれる死の前では役立たず。それを理解していたのであれば、現代的な楽しみを経験しつつ、そこに生まれる身体の変化を観察する。それぐらいはしたらいいのではないか、と思うのです。

そして、これが人気のない事だ、というのもわかります。
しかし、人気がないからと言って、必要にならない、というわけではありません。

とりあえず、私はこんな生き方を30年近く、続けてきました。
この30年が長いのか、短いのかはわかりませんが、未だにこの一人稽古で見つかる世界に先が見えません。
ずっとずっと、ずぅーと、楽しいのです。
歳を重ねて、老いて、病気もして弱ってきているはずなのに、その弱さのおかげで見えなかった世界へと感度が広がり、そこを活かす事によって若い時には考えもしなかった精度でこの身体が動くのです。
本当に、この楽しさをどう伝えたらいいのだろう、と日々、考えていますが、答えは見つからず、こうして、感じた事を淡々と書くだけが頼りです。

ただ、簡単に方法が見つからない分、縁ある人に伝わっている、という実感もあります。
この縁という世界も時間と空間を超えた新しい世界を想像させてくれるものです。

こんな文章が一人でも、縁ある人に届いてくれたらなぁ、と思います。

「つくば稽古」

稽古日時:2023/9/3(日)13:00-20:00(入退室自由)
今回もロング稽古です。稽古の中身も楽しんでもらいたいですが、それ以上に「過ごす」という事を感じてもらえたら、と思っています。
会場:つくばカピオ リフレッシュルーム
参加費:10000円
申込、詳細はこちらのページから

私の稽古はどこの稽古場も、基本もなければ、覚えなくてはいけない技もありません。ペアを組んで号令に合わせて行う練習もありません。気楽に、興味本位でご参加ください。

【定期稽古】7月の予定

7/7(金) 栄中日文化センター
7/7(金) 一宮中日文化センター
7/8(土) 浜松稽古
7/12(水) 名古屋稽古
7/14(金) 名鉄カルチャー名駅
7/19(水) 大垣稽古
7/20(木) 瀬戸ヒーリング
7/21(金) 栄中日文化センター
7/21(金) 熱田稽古
7/22(水) 浜松稽古
7/28(金) 東山稽古
http://www.karadalab.com/

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