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小説:メダリストの同級生

 俺は好きでこの仕事をやっているわけではない。それに給料も安い。それなのに仕事量は多い。別にこの仕事をやったからと言って誰かの人生を変えるわけではないし、誰かが感動するわけではない。だからほどほどにやればいいじゃないか。なのにどうして上司は毎日残業をするのか。なぜ有休をとらないのか。なぜ文句を言わないのか。なぜ会社の経費を少しでも減らそうと努力するのだろうか。

 どうしてもわからなくて、それでとても窮屈で俺は一人で酒を飲む。そんなにつらいってわけじゃないけど酔っていないとやってられない。それで毎日酒をのむようになってしまった。

 今日も、逃げるように会社を出て、コンビニで酒とつまみを買って帰る。俺一人会社を出ることへの抵抗感は消えないが、酔うことへの罪悪感は次第に薄れてゆく。手癖でリモコンのボタンを押した。今日のニューススタジオはやけにカラフルだった。キャスターが座る、机の前にでかでかと飾られた五輪のマークを見て思い出す。今はオリンピックの真っ最中だった。

 ハレの日は現実を忘れさせてくれる。それゆえに気持ちよく酔えるというものだ。プシュッと、カンから音が鳴ったと思ったら、中に入った炭酸があふれ出てくる。それをこぼさぬよう口で受け止めた後、テレビを見ると、世界が止まったような気がした。

 画面の中で満面の笑みをこちらに向ける男は確かに見たことがある。イヤ、それだけじゃない。俺は奴と一緒にそのスポーツをやったし、奴に勝ったこともある。金メダルを取った男の名は、星良智樹。中学校の時同じ水泳部に所属していた。

――ズバリ今、どんな気持ちですか。

――はい、とても、うれしいです。努力がやっと、実りました

――辛い時期もあったかと思います。

――はい、ネットでもいっぱい叩かれて自分はもうだめだと思ってしまうこともありました。

――それをどのようにして乗り越えたのでしょうか

――単純なことなんですけど、そう言う時にこそ、自分を見つめて自分がやるべきことをコツコツと積み重ねたことがよかったんだと思います。

――それでは最後に一言

――本当にこの舞台でこの景色を見れてよかった! 皆さん! ありがとう!

 画面が切り替わり、女子アナが笑顔でコメンテーターに話を振る。あいつはどんな景色を見たのだろうか。コート上から見た開会式はどのような感じだったのだろうか。自分の名前が大きく電光掲示板に出て、プールに向かう気持ちどのような気持ちなのだろうか。泳ぐときはどんなことを考えているのだろうか。世界の頂点を決める空気はどんなものなのだろうか。そして、表彰台で金メダルを受け取る時いったいどんな気持ちになるのだろうか。

 下を見る。腹が丸く膨れ上がっていた。酒を捨てようかと思ったが、口に入れてしまった。それでも酔うことはなかった。

 久々に酔わない夜は暇だった。なので昔毎日書いていたブログでも書くことにした。このブログに熱が入っていたころは、酒を飲むと文章が書けなくなると、酒をけん制していたのにどうしてこうなってしまったのだろうか。それにあんなにすらすらと頭に思い浮かんできた文字も、今やもう浮かび上がってこなくなってしまっていた。


 星良智樹の金メダル

 たまたまニュースで見たら、見ました! 星良智樹の活躍。とにかく感動したし、メダルを取ったのはすごいなと思った。それにもっとすごいのは、何と、中学の時の部活の友達だったことだ! しかも部活では俺が早かったこともある。もしかしたら、なんて思ってしまうけれど残念ながら俺たちは凡人なのです。でも、身近な人がオリンピックに出るなんてほんと、何があるのかわからないと思いました!

30分悩んでこれとは情けない。アップロードはやめようかなと一瞬考えたが、どうにもそれではしまりが悪い。かといっていきなり休止中のブログを更新するのも恰好が悪い。脳の中で迷うと、俺が部活をやめた時のことがぼんやりと頭の中に浮かび上がってきた。なんだかそれに脅迫されている気がして、思い切ってエイヤとアップデートする。

 アップロードしたと言っても何か世界が変わるわけではなかった。なんとなく疲れてしまったので、もう一度お酒が欲しくなってきた。座椅子からのんびりと立ち上がると、スマートフォンが震えた。コメントが来ていたのだ。

――オリンピックで勝った選手に一勝する人は凡人ではないと思う。

それは初めてのコメントではなかった。でも、衝撃的だった。衝撃度で言えば初めてコメントをもらった時よりもすさまじい。初めてコメント返信というものをしてみる。


――じゃあなぜこんなに差が生まれたのでしょうか

――やめてしまったからだと思います。彼が金メダルを取ったのはあきらめず自分のすべきことに向き合ったからだと思います。

 自分のすべきことか。画面でもそういっていた。だとしたら今俺がすべきことは何だろう。ダイエットか? ブログか? 酒? 現状を変えたいのか?

 わからないけど、今はたぶんできていない。それと今のままでは当分できないのではないか。そう思う。でも、生き生きした表情をする星良智樹と会社の上司の姿はほんの少しだけ似たものがあるように感じた。

 その背中に近づけるのなら仕事を頑張ってみてもいいのかもしれない。

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