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小説 出張先の街角にて

コンビニで弁当を買おうと買おうと外に出た。

駅前はどの地域もあまり変わらないものではある。やはりそれでもその土地独特の空気というのだろうか。そこに行くとなにかふわふわしたものを感じる。

いや、駅前だけではない。知らない土地に行くとどこでもふわふわを感じる。他に言い換えるとしたら縛られなさだろうか。自分はこの街にはただ訪れただけだという疎外感から来るものなのだと思う。でもそれはどこか蜃気楼めいていて少し心地よい。

部活終わりの男子高校生達だろう。喋りながらホテルから外に出た俺の前を過ぎ去って行った。

高校生は社会人や大学生のように気軽に遠くに旅行することは出来ない。親とお金と学校の制約がある。俺も、高校の時は電車に乗った回数はかぞえるくらいしかない。県外を自力で超えたことなんて1度しかなかった。しかし、だからこそ旅人が決してときめかぬ場所に彼らはときめき、そこに素敵な思い入れがあるというものだ。

郊外のイオンはデートスポットかもしれない。図書館は勉強スペースなのかもしれない。ゲーセンで壮絶なスコア争いを繰り広げているかもしれない。そして、俺たちが1番面白くないと通過する何の変哲もない住宅街にこそ、子供の時の思い出から、各人々のいこいの場所があるのだと思う。

さっき通って行った高校生達も、ここに家があり安らぐ場所があるのだと思う。少し見渡してみると色んな人がいる。歩いているサラリーマンや、本屋に入っていった人、ショッピングモールに行く人。

それぞれの家庭に愛する人や家族であったり、自分の趣味や癒しなんかが、待っている。俺が始めて来たこの地にもたくさんの人の意思があって、それがゆっくりとなんの変哲もなく、それでいて面白みもなく普通に日常が流れている。

なんだかその差から生まれた摩擦で時間がゆっくりと感じる。言語は同じだし、同じ国に住んではいる。でもこう感じずには居られない。自分は異邦人だ。

なんだかそれがさみしい。別にこの場に染まって俺も根を下ろしたいとかそういう訳じゃない。だけどそういう帰る場所があるというのはとても尊い。いいものなんだ。

そうなるとやっぱり、ある考えが浮上してきてしまう。今俺が住んでいる場所にはそのような思い入れはあるのだろうか?住んでいる建物の形を愛おしいと思える日が来るのだろうか。それは集合住宅でも可能なのだろうか。街のここはこういう場所だという地図をこれから我が物顔で作ってゆけるのだろうか。

そして、それは今みたいに出張だらけの日々でも構築可能なのだろうか。

心が少しさみしくなった俺は学生たちの後ろ姿を眺めた。その家庭に思いを馳せてみる。

「勉強しなさい」「うるせぇよババァ!」「ご飯できたよ!早く降りてきて!」「今行く!」

自分の脳裏に浮かぶ色とりどりの家庭の形に思わず口元が歪む。なんだかマッチ売りの少女を思い出してしまった。俺はそんな可憐で健気じゃないだろうに。

俺は街を歩いてゆく。コンビニに弁当を買いに行くために。そして、俺はホテルの一室で弁当を食べる。時々帰る自室の晩と同じように。

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