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必要なのは語彙を活かす力

 普段文芸に縁の無い友人に「たまには何か書いてみなよ」と言うと、決まって「語彙力ないし無理ムリ」と返される。

 しかし果たして、小説を書く上で、語彙力は必要なのか。逆に語彙力さえあれば小説は書けるのか。


言葉のポテンシャルを最大限引き出す力

 言葉には、広く浅い意味を持つものと、狭く深い意味を持つものがある。多くの場合、「難しい」「語彙力ある」と言われる言葉は後者だ。

 結構な確率で、難しい言葉で書く=レベルの高いことだと思われている。

 しかし実際は「深さ100の言葉A」と「深さ50の言葉B」があった場合、言葉Aのポテンシャルを半分も発揮できない使い方をするより、言葉Bのポテンシャルを最大限活かす使い方をする方が、よりスマートである。イメージの伝達に無駄のない、本当の意味で良い文章が書けるだろう。

 単なる語彙力だけではなく、最小限の言葉で最大限のイメージを伝える力が必要というわけだ。


「青」と「群青」

 「青」という言葉は、色んな青を浅く包容している。広く浅い言葉だ。
 一方「群青」は青の中でもやや紫がかった色で、「群青色の空」などのある程度固定されたイメージを含んでいる。「青」よりも「群青」の方が狭く深い意味を持っているのだ。

 あなたがまさに群青色の空を表現したいと感じているなら、「群青」を使うことで、言葉のポテンシャルを最大限活かした良い文章が書ける。
 ここであなたの語彙に「群青」という言葉が無ければ不完全燃焼に終わってしまうので、語彙力があるのは確かに良いことなのだ。

 ところが、単に「青い空」と書くのが良いところで、「群青」という(単なる「青」と比べれば)難解な言葉を使うと、それは冗長な表現になってしまう。いたずらに深い意味を持つ言葉を使っても、良い文章が書けるとは限らない。

 あなたの思い描くのが「青い空」なのであれば、言葉を無理やりこねくり回して料理するよりは、「青い空」という言葉を使ってイメージをぴったり一致させる方がずっと良い。


名作を見てみよう!

以下は芥川龍之介『羅生門』のラストシーンだ。

 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子(はしご)の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒(さかさま)にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。
 下人の行方は、誰も知らない。

出典
芥川龍之介『羅生門・鼻』(新潮社 2005年)


 現代では難解な読みであると思われる漢字には、カッコ書きの形で読みを示した。

 しかし「これはさすがに使ったことないなぁ」と思うような難解な語は『黒洞々』くらいのものではないだろうか。

 もちろん羅生門には時代背景を含んだ語として「市女笠」「揉烏帽子」のような難しい語も登場するが、あくまで表現としては全体にわたって非常に簡潔だ。


 そして以下に夏目漱石の『こころ』冒頭を引用する。

 私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

出典
夏目漱石『こころ』(新潮社 2004年)

 強いて難しい言葉を挙げるなら「憚かる」「心持」などだろうか。

 一般に文豪と言われる作家の作品は、言葉のポテンシャルを無駄にすることなくイメージを膨らませるのが非常に上手い。最小限の言葉で、最大のイメージを伝えるのだ。


簡潔な言葉を使う勇気

 難しい言葉を使うと安心しやすい。なぜならそういう言葉は深い意味を持ち合わせているから。私たちの深いイメージを、伝えてくれそうな感じがするのだ。
 しかし難しい言葉に甘える文章を書いた時、たいてい私たちはその言葉たちについて行けずに、書いた文章は言葉たちに振り回されてしまう。

 文章を書いていて難しい言葉を使いたくなった時、今一度立ち止まって、自分がどうしてその言葉を使いたいと思ったのか考えてみて欲しい。

 あなたの中に、本当にその言葉でしか伝えられないイメージがあるなら、胸を張ってその言葉を選ぶのが良い。
 もしあなたの中に言葉の力で安心したい気持ちがあったのなら、その言葉を少しずつ削ってみて欲しい。それでもあなたのイメージが通ずるのかどうか、ほんの少しだけ勇気を持って試してみると、新たな道が開けるかもしれないから。


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