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長編小説を読む醍醐味について

いろいろなコンテンツが、その時々の気分で、いつでも好きなように消費できるようになってきた結果、そられのものの自分たちにとっての価値がデフレを起こしてしまい、「無駄な時間を過ごしたくない」という思いが先行して、音楽もテレビも倍速でスキップしながら楽しむ習性が身についてしまっているという話を前にも書いた。

2000年代に入ってから、有名アーティストのベストアルバム収録曲は遅くても20秒以内には歌い出し、イントロは平均6秒程度になっており、これは、米国の音楽市場は配信によるダウンロード販売がCDの売り上げを上回ったタイミングと重なるのだという。多くのリスナーはサビまで待てず、曲が始まって30秒以内に見切りをつけて次の曲へ進んでしまうことを背景に、ヒット曲のイントロ短尺化が進行していると考えられる。

音楽やテレビだけではない。他にもいろいろと「時短」サービスが支持されている。

「RIZAPグループ」は、コンビニエンス型ジム「chocozap」(チョコザップ)をスタートした。1日5分のトレーニングを掲げて、仕事帰りや買い物の合間などに気軽に取り組める仕組みにして、月額2,980円(税別)に設定したという。1日5分としたのは、30分以上の長時間運動に比べて継続しやすいからである。

「flier」(フライヤー)では、ビジネス書を中心に約3,000冊を10分ほどの要約テキストで読めるサービスを提供する。累計会員は98万人とコロナ禍の2年で倍になったという。サブスクプランは月額2,200円である。

何やら、皆んな「生き急いでいる」ような感じである。

これも前に書いたことだが、いろいろなところで「時短」をしているにも拘わらず、「ダラダラ」と過ごす時間も決して少なくはない。むしろ、「ダラダラ」するために、他のことを限られた時間で片付けようとしているとも言える。要はメリハリの問題なのである。

こういう時代だからこそ、長編小説を読んだり、長いオペラを聴いたりする意味を改めて考えてみたい。

長編小説を読むとか、長いオペラを聴くという行為は、「時短」とは真逆であろう。小説の「あらすじ」だけを要約で読んだり、「聴きどころ」だけをハイライト盤で聴いても、内容を大まかに把握するには悪くはないが、それだと大事なものが抜け落ちてしまうような気がする。

つまり、「長大なボリューム」自体の持つ意味である。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』、トーマス・マンの『魔の山』『ブッデンブローク家の人びと 』のような長編小説、あるいは、リヒャルト・ワーグナーの「ニーベルングの指輪」「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のような大楽劇は、おそろしく長大であること、堪能するのに相当の時間と覚悟を要すること、それら自体に大きな意味があるような気がする。

つまり、小説を読んだり、オペラを聴いたりすることを通じて、他人の人生を生きるのと同じくらいの中身の詰まった経験を疑似体験することができる。人は自分の人生を1回しか生きることができないが、本を読んだり、音楽を聴いたりすることを通じて、自分以外の人生を疑似体験することができる。それが文学や音楽の意味でもある。中でも、長編小説や長大なオペラは、いわば細かい襞と襞の隙間まで、これでもかという具合に事細かに描いている。だからそれだけのボリュームになるのだ。

だから、我われも、すぐれた長編小説とかオペラを味わおうと思ったら、「時短」するのは、もったいないということになる。作品の真価を味わい尽くすことができないからだ。いくら時間がかかっても構わない。否、むしろ時間をかけて、作品世界の中に耽溺するべきである。また、そうでなければ、作者が作品に込めた思いとか意図に近づくことはできない。

僕は、「ニーベルングの指輪」をDVDで最初から終わりまで通しで鑑賞したことがある。ワーグナーやクラシック音楽に不案内な人のために補足しておくと、「ニーベルングの指輪」という楽劇は、序夜「ラインの黄金」、第1夜「ワルキューレ」、第2夜「ジークフリート」、第3夜「神々の黄昏」の4部作から成る畢生の大作で、トータルの演奏時間は、指揮者のペース配分にもよるが、だいたい15時間くらいを要する。

1日1幕ずつ、途中で休憩(サボり)も入れたりして、たぶんトータル2週間以上は要したと思う。何だかよくわからなかったところは、戻ってもう1回、聴き直したりもした。その間、寝ていても、楽劇の一場面が夢の中に登場したこともあった。文字どおり、うなされるほどに作品の世界観の中に没入していたような感じであった。それでも、1回通して聴いたくらいで、ワーグナーの作品世界に近づけたような気はまったくしなかった。この4部から成る長大な楽劇はまるで宇宙のようなものだからである。

もちろん、それよりも以前に、「サワリ」の有名な場面だけをハイライト盤等で聴いたことはあったし、例の「ワルキューレの騎行」とか、「ジークフリートのラインへの旅(ライン騎行)」とか「ジークフリートの葬送行進曲」とかオーケストラで単独で取り上げられるような有名曲も知ってはいたものの、最初から終わりまで通しで聴いた時の体験というのはまったくの別物であった。

ドストエフスキーやトーマス・マンの長編小説もそうだが、長大なオペラも、正直なところ、退屈な場面もある。眠くなる箇所もある。ダラダラとした感じのところもある。でも、そうした退屈な場面も含めた「所要時間」も、作者の意図とは無関係ではないような気さえする。

我われの人生だって同じである。目まぐるしく展開して退屈しようもない場面もあれば、単調極まりない場面もある。むしろ後者の方が多いくらいである。そうした時間配分も含めて作者の意図だとしたら、軽々しくスキップするわけにはいかないではないか。

年を取ってくると、文庫本の細かい文字を追うのが億劫になる。したがって、今後は、長編小説はできればオーディオブックで朗読を聴くことにしたいと思っている。

もちろん、言うまでもないことだが、倍速では聴かない。


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