見出し画像

学級文庫にあったボロボロの南総里見八犬伝

小学校何年生の頃だったかは忘れてしまったのだけれど、教室の隅にあった学級文庫の本棚に、「南総里見八犬伝」があった。
(南総里見八犬伝は、江戸時代に書かれた小説で、冒険系の物語だと記憶しています、)
元はクリーム色の表紙だったのかもしれないけれど、所々茶色くなっていて、開くとペキペキと音が鳴るし1ページめくるごとにページが取れてしまいそうだった。その危なっかしさに、私は初めてその本を手に取ったとき、すぐに本棚に戻したことを覚えている。
私がそのボロボロの南総里見八犬伝を見つけたのはその教室に入ってすぐの頃で、まだクラスも新しく、仲良しな子もいなかったしグループもなかった。

思えばその頃から本が好きだったのかもしれない。私は休み時間のたびに学級文庫の本棚の前に立って色んな本を触ってた。
実際に読むとなると、授業の間の休み時間では少し短すぎるので、昼休みくらいしか本を読める時間はなかったように記憶している。
多分他の本もたくさん読んでいたけれど、私がそのとき所属していたクラスの学級文庫で覚えているのはボロボロの南総里見八犬伝だけだ。

少しずつクラスの子たちとも打ち解けてきていて、特別近くにいた友達というのはいなかったとしても、私の周りにもある程度会話ができる友達が現れるようになっていった。
学級文庫の本棚のすぐ隣は教室の後ろの出入り口になっていたので、ゆっくり本を選んでいたりすると、教室に入ってきたクラスメイトとか教室から出ていくクラスメイトに話しかけられたりしてしまった。
「なに読むの?」とか、大抵そんな質問で、相手もきっと深く考えていないのだから適当に答えてそのまま本棚の前に立っていればいいのに、当時の私にはそんな勇気はなく、話しかけられたら恥ずかしくなってすぐに本を閉じてその場から逃げるように曖昧にクラスメイトと会話していた。

クラスメイトたちと仲良くなるにつれて、昼休みは失われていった。
その生活が嫌だったわけでもないのだろうけれど、私は人の声が近くにあると読書ができないので、昼休みは友達とお話をする時間になっていった。
学級文庫の本棚の前に立つことも、友達のいない奴のすることみたいな認識がみんなの中に芽生えてきてしまっていて、私は南総里見八犬伝含め色んな本を横目で見ながら友達と笑い合ったりしていた。

今になっても南総里見八犬伝のことだけをこんなにはっきり覚えているのは、きっと私が読みたくて仕方なかったからなんだと思う。図書室へ行けばきれいな南総里見八犬伝があったかもしれないのに、どうしてもそのボロボロになった南総里見八犬伝が読みたかった。
1ページ1ページが重くて、思うようにめくれない。そんな本が好きだった。今は小さくて軽い、外へ持ち運びやすい本が好きなのだけれど、小学生くらいのときは重々しい単行本ばっかり読んでいた。

私が学年の上がる頃、もしくは卒業してしまう頃(何年生の頃だったか覚えていないので)、あの南総里見八犬伝はクラスメイトが落として壊してしまったとかで学級文庫からは無くなっていた。本が壊れるとは、と聞きたくなるだろうが、あの南総里見八犬伝ならうなずける。それほどまでに劣化していた。表紙と中身が完全に離れてしまったとか、多分そんなことだと思う。
捨てちゃったのかな、と思いつつも担任にそんなことを聞ける勇気はなくて黙っていた。
だけど本棚にぽっかりと空いたあの隙間のことは今でも思い出せる。他の本が南総里見八犬伝があった部分にもたれかかるようにして全部揃って倒れている。あそこには確かに南総里見八犬伝があった。

本って綺麗なほうが好きかと問われると私は悩んでしまう。特別綺麗でなくてもいい。文字さえ読めれば。あとはゆっくりと文字を辿ることのできる環境さえ整っていれば、他になにもいらない。

ちょっとわがままを言ってもいいのなら、本を捨ててしまうなんてことはしないでほしかった。
学級文庫のことが大好きだったのに、きちんと読むことが出来ずに本が1冊消えていった。本が読めなかったのは大した理由ではなく、そこには思春期に突入していくための私の、紛れもない清潔な「仕方なさ」みたいなものがあって、私自身も葛藤していて、苦し紛れにあの南総里見八犬伝のことを今ここに書き記すことしかできない。

私は南総里見八犬伝をいまだに読んだことがない。あのボロボロの南総里見八犬伝のことを忘れられずにいるから、ペラペラと、普通にページがめくれる綺麗な南総里見八犬伝は違うな、となんとなく思ってしまうからだ。

そう、一生南総里見八犬伝は読めない。
笑うところです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?