見出し画像

権威 ほにや主義?

沖縄ほにや


のれん元の権威に合わせる事で成っている。
 ↓
合わせることで沖縄ほにやは、のれん元の高知ほにやの価値観、よさこい踊りを賛美して、陶酔する。のれん分けされている時点で、最初から権威に依存する体質になっていた。

毎年夏に高知で行われる「よさこい祭り」で沖縄ほにやは高知ほにやとして参加し、賞を取って自らに箔をつけてた。
かつてリーダーが、メンバー募集で実績に高知ほにやとして参加したときに取った賞を肩書にして出して、メンバーから言われてた。

このリーダーは、権威の代弁者になりやすい所があり、何かと権威の話をしてることが多かった。それしかなかった。権威を背景に正義感に染まる所があった。

聞き手によっては、価値権威の代弁話は自慢話に近くなる。そして自己満足化しやすい。その辺のことは自分の見る限り、誰も指摘されてなかった気がする。他人のやる事を自己満足というくせに、向こうは自慢話に等しいことを話しても自己満足と指摘する人はいなかった

この人々の権威に付き合っていくとむなしくなる。思い出すだけでも気がおかしくなる。分析しておかないと同じことを出された時に、おかしくなるだけだ。

数の論理


この団体は数の論理で動いていた。
踊り人数や隊列の関係で約20人いないとならなかった。考え方がズレている人には「他に行け」と言ってくる。
しかし、人数が少なくなり、踊り手が乏しくなると、「踊ってくれないか?」と「他に行け」と言われてた人を頼ってくる。何とも二枚舌なものか。数の論理でこの団体が左右されやすいのが物語っている。

しくみ


沖縄ほにや、この踊り団体の価値は高知ほにやから得るよさこい踊りがコアになって動く。それにより沖縄ほにや内に横たわっている「価値」、「自己陶酔による悦楽」が躍動し円として循環する。(図1参照)

図1

逆に入ってこないと、この団体の中心は空洞化していく。故に1年毎に入れてこないと、踊り団体の活気はなくなる。(図2参照)

図2

なぜなら、高知ほにやも、1年毎によさこい踊りは変化して、毎年違うものが演じられる。高知のよさこい踊りの為に作られるために、メンバーが募集され、踊り団体としての組織は組み変わっていく。自身の組織で踊り、その衣装が作られている構造を持つので。この中空性を満たすために自己陶酔し
ようとする人が踊りをしにくるのだろう。

この仕組みを分析している人は他にいるのかわからないが。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?