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2章 円環

2章.円環

a)円環
 円環とは丸い環であり、丸い環の線に沿って循環する状態をいう。円の循環は「季節の循環」、「昼と夜の循環」というように、一つの全体性の中で二つの概念が動いている。円環は、一つの周期を廻ってゆくことで、過ぎていった時間、世界を新しく作ることで、再生してゆく。(エリアーデ、1969)
 円は、対称の原理で同一化された軸によって動く。原理は、非対称で関係ないもの同士を対称的な関係に結び付けてしまうので、時間的な継起を消滅させることで扱うので、時間と世界を連続的に再生してゆく。円環は時間的な継起が消滅した中で循環し、二項論理を動かしてゆく。具体的な科学である「器用な仕事(bricolage)」は一般化された認識の中にある無数の限られた材料の中から二項を選び、関連づけて行く。原理により同一化されてゆけば、部分と部分のつながりにより、全体である円環を動かしてゆく。エリアーデは、円環は一つの周期を通して、再生する時間、世界があるというが、「季節の循環」によって表現される。例えば森。森の文化は季節に沿って変化してゆく。春は若菜が芽吹き、夏は青葉、秋は実りとなり、冬は森が死んだようになるが、春になる事で若菜が再び芽吹き、命がよみがえってゆく。季節の変化に応じて、生命が循環されてゆくことで、再生してゆく。季節の繰り返しによって、循環と再生が行われ、生命の誕生と死が繰り返されてゆく。(安田、2002)
 円的な循環が対称の軸によって考えられてきたのは、季節の変化による影響が強い。一般化される原理は、経験する事で個体である類を扱ってゆく中で、細分化される。「人類」という類で示すならば類は全体的なクラスであり、個人が集まれば、家族又は、集団となり、種族となり、種族が集まってゆけば、人類となり全体的なクラスとなる。
一般化されてゆくクラスを個体として用いてゆく事で、個体を個人のように扱っていく。その中で一般化される知識を対称的に結び付けてゆく。主体が環境を、環境が主体を限定する。一般化されてゆくのは、限定しあう世界の中で起こっている事であり、神話的な思考は、限定しあう中で行われてゆく。
 主体が環境を、環境が主体を限定してゆく。「限定」とは、限られた範疇において、定める事である。「主体が環境を限定する」とは、主体性の中に環境を含むことであり、「環境が主体を限定する」のは、環境の中に主体を含んでいる事にあり、同心円構造を作る。互いに対立すれば、対称的につなげるのは、技術によるものであり、技術によって結びついてゆく。
 この関係は対称の原理によって互いに限定しあう事で、同一化している。
主体が環境を、環境が主体を限定してゆくことで、同心円構造となってゆく。同心円の特徴は、小さな円が大きな円に包まれている事で、限定されている対立関係にある。(レヴィ・ストロース、1969)同心円構造の対立を対称的に結び付けて行くのは技術による媒介にあり、形である一が「形なき一」であるのは、相互をつなげるための仲介である。「器用な仕事」は、非対称な関係にあるもの同士を対称的につなげてゆく事で、同心円構造同士はつながる。(図3参照)
神話的な思考がされるのは、「器用な仕事」によって周囲から多様な材料を集めてゆく事で創られてゆく。限定しあう同心円の構造が対立しあうのは限定される事にあり、中心と周縁、男と女、聖と俗、独身と結婚等が対立している。ある民族の集落は、同心円の構造であり、小さな円は、大きな円に対して対立している。小さな円には、貯蔵庫に生の食料が保存されており、ここでの調理は禁止されている。生の食料を調理できるのは、外側の円にある家族の住居で調理され、食されてゆく。対立関係を説明した様に、生の物と調理された物の対立を示している。同様に独身者は内側の小さな円にある住居に住み、家族は外側の円にある住居に住んでいて、家族の者が、内側の小さい円に入る事が禁じられている。(レヴィ・ストロース、1969)

円環2-1

 対立するもの同士をつなげるには、技術を媒介してゆくことで適応させてゆく。技術は主体と環境の対立を媒介として適応し、対象の原理を適応する事により、部分同士の同一化により、部分と全体が同一化してゆくことで、円環を循環してゆく一つの軸となる。媒介する技術は関係を作ることにあり、一定の目的を達するための手続き、手段、結合を行うものである。対象の原理は、あらゆる関係の逆をその関係と同一のものとし、同一化させるように扱う事で非対称な関係を対称的であるかのようにあつかう原理であり、対立しあう関係を同一のつながりによって結合させてゆく。そのためには、技術の媒介により対立を仲介してゆく必要がある。(図3参照)
技術の媒介とするのは「形なき一」であり、非対称な関係にあるもの同士を対称的につなげることによって、限定しあう事から共有し、形成してゆく関係に変化してゆく。(三木、2001)
 部分と全体の同一化を通して二項論理にもとづく円環の循環により、循環と再生の周期、季節のつながり等の諸関係を「形なき一」によって循環している事が分かる。主体が環境を限定して行くのは、主体が環境の影響を受けて行動し環境が主体を限定してゆくのは、環境は、主体によって影響されてゆく。対立しあうが、影響されている。対立するもの同士は二項論理によって、対立、極、相違、相似の関係によって、区別する事で示されてゆく。
 対立し、影響されてゆく現象は、純粋な経験によって同心円構造が対称的に向き合うことになる。純粋経験とは事実をそのままに知り、自己の細工を棄てて、従って知る事にある。主、客もない未分の状態にあり、色を見、音を聴く刹那に対し、判断すら加わらない前の状態であり、経験するとともに還元されてゆく。(西田、1950)この経験は、純粋な意識を通して経験してゆくが、判断する状態ではなく、事実が還元された意識そのままの経験である。この経験を通して、同心円構造に含まれている小さな円は、未分化された意識にある。直接的な経験であるので、未分化された単純性から、複雑化されることにより同心円構造は、小さい円と大きな円とに分化してゆき、向かい会う状態になってゆく。(図4参照)

円環2-2


 主体が環境を、環境が主体を限定しあう同心円構造の関係を向き合う関係にした。「主体がa」、「環境をb」とすれば、aがbを含むことで主体は環境を限定する。bがaを含んで、環境は主体を限定してゆく。それによって同心円の構造が作られる。この関係を言えば「環境によって、主体は表現」し、「主体によって、環境を表現」している。前者が作られるものとすれば、後者は作る物となろう。ここで言う環境とは、環と環が関わりあう境目であると同時にそこで、生活している生物、人間に絶えず働きかけ、影響している事を言い、自然、社会のことを表わしている。互いに影響しあっているが、同心円では小さい円が大きな円に対する対立し、影響する事で表現されて行く。純粋な経験を通して、単純な未分状態から複雑化されて行く事で、aとb、bとaは互いに向き合って行く。対称の原理の適用により同一化されるが、非対称によって動いているものであり、同時に二項論理と対称の原理の相互性によって、動いている。対称、非対称に原理が動いて行くのは、自然認識的な世界に対して、内的即外的、外的即内的で、主観的、客観的にも相互的に自己を想像して行く事で自己自身を限定し、構成してゆく。「形なき一」によって原理が、対称、非対称に動いて行くのは、限定していた主体と環境とが向き合う事にあり、その中で繰り返して行くことにある。

b)バイロジック
 人間の思考の原理は、自然的認識を経験し、一般化してゆく事で「形なき一」は個体としてのクラスにしか興味を持つことがなく一般化してゆく事で、いくつかの可能性を選び、対称的に結び付けてゆく。主体が環境を、環境が主体を限定してゆくことで、同心円構造が作られてゆく。同心円は、動的で限りなく自己のうちに自己を移そうとするのに対し、対称性に基づく円に対して、静的で、自己を形成してゆくが、形成するのであって、互いに模倣しあって行く。
 この二つの円環は異なるようにあるが、静的であり動的に動く。純粋な経験を通してゆくことで、同心円に含まれる小さい円の概念は未分化される。未分化によって、対立している意識が浮かび上がってゆく。浮かび上がってゆくクラスの中で、いくつかの可能性が選ばれることで、対称的になってゆく。これは同心円に含まれ、対立する小さな円が単純化される状態から、複雑に分割される事で、大きな円の中で対称的に循環してゆく。図4によって示したのは、大きな円の中で、小さな円が分割するのではなく、非対称に分割して、部分と全体を一致させることで、向かい合わせてゆくことができる。
思考してゆく原理は、対称であり、非対称である。対称的にある物事を扱ってゆく事で、思考を停止させてゆく一方で、特徴を個性化し、非対称に扱ってゆく原理がある。対称と非対称の原理の相互性によって動いているために、同質で不可分の全体で扱う側面と、諸部分を分割し不均質に扱う側面がある。
具体的にいえば、1章で説明した子供は「器用な仕事」を通して、神話的な思考を行ってゆくが、具体的な物事を集めて組み立ててゆく空想を創り、二項論理を用いて、異なる物同士を集めて語る。同時に空想は非対称なものに変形してゆく事があり、子供が狩人に成る事を空想しても、狩る対象の山羊を狩ることで殺し続けても、山羊との同一な関わりをすることにより、考えてゆくことで対称が非対称に変化し、非対称が対称に変化してゆく。マッテ・ブランコは、「分裂症における基礎的な論理―数学的構造」において人間の心は、対称、非対称に変化してゆく状態を、新しい原理として用いている。

Ⅰ 人間のうちには、同質的で不可分の全体であるかのように見えるものとして特徴づけることのできる心的な存在様式がある。この同質的で、不可分の全体はそれが自己と非自己を区別しないという事実によって示されている。言い換えれば、それ自身の本性のために、そうした区別はなさえない。こうして、自己と他のあらゆる人間は、同じ一つのものであり、個体はまったく存在しない。このような心的な存在を「同質的で不可分の存在様式」とよぶことができる。

Ⅱ 人間のうちには、全現実(存在様式自身の現実を含む)を、分析可能のように、もしくは諸部分からなるように扱ったり、思い描いたり、「眺めたり」、「生きる」ものとしての記述、もしくは、特徴づけることのできる心的な存在様式がある。
 この存在様式を「分割し、不均質にする存在様式」とよべる。

Ⅲ 人間のあらゆる心的な現象は、二つの存在様式の間の相互作用、共同作用から生じた結果である。

 バイロジックは自然的認識に対して、認識が一般化されてゆくことで、対称、非対称に変化してゆく。円環は、対称、非対称に循環し、動いてゆく。一般化されてゆく認識は、「形なき一」に含まれており、認識を対称的に用いてゆく。相互性、共同性によって形作られてゆくが、同心円構造が別れて対称的に向き合うのは、同一化されることにある。
 先に、狩人と山羊の夫婦関係で述べてきたが、同心円構造で用いてゆく。主体は環境を限定し、環境は主体を限定する。狩人と山羊が結婚し、夫婦になってゆく神話は、男と女の関係に還元されてゆく。同心円構造では、男と女は対立している。対立しているが、対立している概念を限定していることにある。故に対立するのは、観念的な形であり、対立するイメージを表現している。自然認識的な経験によってイメージが作られてゆくならば事実にあり、事実によって事実を対立させていることで、表現している。しかし、人と山羊の結婚してゆく話により、相互的な対称性を見出そうとする。対称的な関係によって、
構造が成り立ってゆく。関係を「器用な仕事」によって、組み立ててゆけば男と女の関わりによって、組み立てられてゆき、形が生じる。対称の原理によって同一化されることで、形なき形である「形なき一」が、形となって行く。形の変化は流動的で、関係の連続性によって変化してゆく。「形」は根源的なもので、「喜」、「怒」、「哀」、「楽」等の形によってつなげられてゆく。対称的な関係により同一化されてゆくが、非対称に離れていく。結婚を通して、狩人と山羊は夫婦となってゆく。同時に別れてゆくときに、二つの約束が成されてゆく。

1)雌山羊とのつがったのを通して、全ての雌山羊と子山羊の父親となり、同一のつながりを持っている。このつながりにより、雌山羊と子山羊を殺してはいけない。
2)狩りの対象は、従兄弟、親戚の雄山羊であるが、殺したら、死体を丁寧に扱い、敬意を持って扱うこと。

 バイロジックの「同質的で不可分の存在様式」を通して、約束がなされていった。対称の原理の同一性を通して行くことで、形成された。分かれてゆく事で、動的な同心円構造の状態に戻ってゆく。
この状態に戻ってゆくことで「同質的で不可分の存在様式」は「分割し、不均質にする存在様式」となり、人も山羊も別れてゆき、非対称に動いてゆく。ある日、偶然にも雌山羊と、子山羊を見つけた。山羊に近づいて射ようとした時に、非対称に動いていた行動が、対称的で同一的なつながりが生じてゆく。純粋な経験を通してゆくことで自然認識は還元されてゆく事によって、関係の本質を確信してゆく。妻である雌山羊は「私はあなたの妻ですよ」と叫んだときに、狩人は山羊を狩ることを辞める。還元された本質によって、純粋な経験を通してゆく事により、狩人の非対称な行動は、同心円に含まれる対立している小さな円が、大きな円に対して同一となり、従来の思考を停滞させてゆく。非対称な行動が対称の原理が適用された事にある。神話は具体的な物事を用いるので、他人、又は動植物との関係がないように思えて同一化するように扱っても、特徴付けられてゆく事によって同一化されていく物は、分割し不均質になってゆき、対称的になってゆく。狩人と山羊を関係付けると人間が動物に、動物が人間になることで、「人間が動物に影響を与え、動物も人間に影響を与える」限定しあう事になる。円環が対称、非対称によって動いてゆくのは、一つの周期を廻ってゆくことで、過ぎていった時間、世界を新しく作ることで再生してゆくことにあり、時間と空間、空間と時間の結びつきにある。時間的な継起が消滅する事で円環が形成されて関係が回復、再生し、又は自己を構成する事で自身を見直してゆく。同時に、同一で不可分を諸部分によって分割し、不均質になってゆくのは習慣に基づいているものである。
 円環は対称、非対称に動くのは、季節の変化によって基づくもので、二項論理の変化によって変わってゆく。諸部分が分割され、特徴が明らかになってゆく事で,対称的になっているつながりは、対立、極、相関、相違、相似によって非対称になる。インディアンの詩を例にして、説明してゆく事にしよう。

「インディアンの行うことの全ては、円環(サークル)を成していることに気がついただろう。それは宇宙の力が常に円をなして働いているからであり、あらゆるものは円環になろうと努めているからだ。
(中略)
宇宙の力の行うことは、全てが円環を成している。天空は丸いし、地球や多くの星たちもまた、ボールのように丸い形をしているのだと聞いている。
風は全力で吹くときには、渦を巻く。鳥は丸い形をした巣をつくる。
鳥もわしらと同じ信仰を持っているからだ。
太陽は円を描いては昇り、そして沈んでゆく。月も同じだ。そして両方とも丸い形をしている。
季節でさえ、変化しながら大きな円を描いてゆく。そして季節は必ず自分のいた所に戻ってゆく。人の命は子供から子供へとつながる円を成しており、こうして円環は力の働くあらゆる所に見られるのだ。」
 ブラック・エルク(オガララ・ラコタ族)1931
/それでもあなたの道をゆけ~インディアンが語るナチュラルウィスダムより/著;ジョセフ・ブルチャック/訳中沢新一+石川雄午、1998(めるくまーる)

 この事例は、インディアンが円環(サークル)について語ったもので、円の形を成して働く事で、あらゆるものが、円環になろうと、全てに力が働いていて、循環する事を示している。バイロジックの例が示されているのは、「季節」と「太陽―月」の関係にある。詩で「太陽と月は、円を描いて昇ってゆき、沈んでゆく」ことを語っているが、「太陽―月」は、二項論理で表わされているが対称、非対称にも変化する事で変化してゆく。季節を例にして述べれば夏になれば夏は太陽に近づいてゆき、冬になれば、太陽は遠ざかり月に近づいてゆく。夏、冬に対応してゆく「昼―夜」の長さは、太陽と月に対し、近づく距離に影響される事で、バイロジックの「分割し、不均質」にする非対称によって具体化されてゆく。(図5参照)

円環2-3

季節は、円に沿って循環しているのが詩に表わされているが、対称的に動く円環が原理により非対称に、動いている事が図4によって示されている。季節は円に沿って、対称的に動きながらも、非対称に動いてゆくのは、同心円構造により、小さい円が大きな円に含まれているが、対立している事にある。同心円構造が対立しているのは、自然的な認識に影響され、観念的なものであり非対称に表現されてゆく。この構造は動的であり、バイロジックの非対称によって表現されてゆく。対立する観念であっても、対称の原理が適用される事で部分と全体は同一化してゆく。夏、冬の季節は、「太陽―月」の二項論理に対して、非対称に対応してゆくが、非対称を対称性に変化させる事で、互いに対応してゆく。対称であり非対称で、非対称で対称に動くために相互的で、協同的に円環は動くために収縮と膨張を繰り返していることで部分と全体が一体化している。季節を一つの円とすれば、対称、非対称の原理に影響されて人々は動いている。この連続する中で年輪が円の内部において形成されてゆく。


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