誰かのために生きないと、生き続ける意味なんて見つからない

社会に出てたくさんのことを経験する中で、昔からの要領の良さによって色んなことができるようになった。企画、デザイン、PM、プロデュース、営業、マーケティング、ディレクションなど。要領と地頭だけはそこそこ良いので少しやればすぐ80点は出せるようになった。
昔はなかったお金や時間も、出来ることが増えるのに比例して勝手に増えた。何か足りないものがある時の方がエネルギーに満ち溢れていた。
今はそこそこ充足したものに囲まれて、ぬるま湯の中にいる。
絶対に達成したい大きな夢も希望も特にない。大した欲も特にない。
自分はアーティストではなく作家寄りのクリエイターなので、自ら世界に叫びたいこと・主張したいこともない。自由に描いていいよ、なんて言われたら白紙のままから進まない。
こうしたい、こうなりたいなんて未来像は一つもない。

ただただ今ある心地よいぬるま湯の中ですごして、そのお湯がいつか冷えきり、その冷たさで命尽きる瞬間をただただ見つめて待っている感覚。着々と近づく終わりをなんの感情もなく見つめている。
この感覚はもうしばらくずっと消えていない。

この感覚は虚無主義(ニヒリズム)と呼ぶらしいけど、その中には対して積極的虚無主義(Optimistic nihilism)なんてものもあって、それは「人生なんて無意味なんだから、どうせなら好きに生きようぜ!」という考え方らしい。そんな前向きな考え方になれたらどれだけいいんだろうね。

僕は周りの尊敬できる素敵な人々や環境に恵まれてきてずっとそんな人たちに救われてきたという思いがあるので、その分、もらった分を返さなきゃ、他人や社会に返していかなきゃという思いがある。
普通であればそんな考え方も良いものかもしれないけど、こんな考え方があるからこそさらに自分の鎖になっている。

誰かの役に立てないのなら、社会に意味のあるものが作れないなら。
意味がない。生きる意味がない。
「どうせ人生に意味なんてないのだから、好きに生きようぜ!」なんて気になれるわけがない。

もちろん、時に仕事やスキル面で僕を必要としてくれたり、人間としての良さを見出してくれて必要としてもらうことはあるし、そういった一つ一つに救われている。ギリギリのところを、そうやって尊敬する人や仲間や友人に掬い上げてもらった。その瞬間瞬間は、たしかに僕がいる意味を感じる。
でもやっぱり、それが終わったら。また意味が一つ消えていく。

根の部分で、自分が自分に価値を見出していないし必要だと思ってないんだろう。
でもそれが変わることってない。

そもそも人間の承認欲求というのは、元々は人間が親となり、子を授かって子を育てるための本能として備わってるものらしい。子からの無条件の承認を得ることで、自分の承認欲求が満たされる。子を育てるための動物的本能が承認欲求の正体。
だからこの多様性の許された社会によってあらゆる個のあり方が正しいものだと定義されたからこそ、本来子を育てるための本能として機能していた承認欲求が、子を持たないことでバグってしまって、奇しくもSNS社会がさらなるバフとなって爆発してしまう人が増えているみたい。

昔は「核家族こそが幸せの形である」と画一的な幸せが定義されていたからこそ、思考停止で誰もがそれを目指していればよくて、それさえ叶えれば幸せとされ、子からの無条件の承認も得られ、悩むことなく幸せとされる環境で死ぬまで過ごすことができた。そういう意味では、昔の方が最大多数の最大幸福が実現されていたんだと思う。
今は良くも悪くも多様性が許されて、全ての生き方が肯定されるようになったからこそ、救われた人もいるし、こうやって生きる意味が見いだせなくなった人も出てくる。

視野が狭い方が幸福度が高い、なんて話を友人とこれまで何度もしたことがあるけど、心からそう思う。出来ることが増え、都会で色々な生き方を目にしたからこそ、見えなくなってしまったものは確実にある。

この、進んだからこそ自分のことが見えなくなってしまった世界でどう生きるのが正解なんだろう。

自分について考えれば考えるほど、どんどん自分についても行き先についても見えなくなっていく。
生きる意味ってなんなんでしょうか。自分一人で生きていくにはもう充足してしまって、刺激も楽しみもない。

誰かのために生きないと、生き続ける意味なんて見つからない。

今日のごはん(ふりかけのみ)におかずが追加されます。