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「物書き」視点で見る、杉田水脈議員の寄稿文問題

 さて、自民党・杉田水脈議員が新潮45に寄稿した『「LGBT」支援の度が過ぎる』と題された文章が燃えに燃えております。ひょんなことから、その寄稿文全文を読む機会がありまして。

 内容については、まあ、いろいろな感想を持ちましたけれども、それは日本中のありとあらゆる人が言及しておりますので、僕は「物書き」という視点で、何が問題だったのかな、ということを考えてみたいと思います。

■杉田議員の寄稿文の主旨

 まず、寄稿文自体がなにを言いたかったのかな、というのをざっくりと考えてみますと、これは「LGBTという題材を用いた、リベラル系メディアに対する批判」が話のメインであったと思います。大きく取り上げられている「生産性」という部分は、正直、オマケです。

 ではなぜ、その「生産性」という言葉が大きな批判を浴びたのでしょう。

■文章には、「視点スケール」というものがある

 小説においては、「視点人物」という概念があります。一つの物語を紡いでいくにあたって、誰の視点で見た光景を表現するのか、ということですね。例えば、作中出てくる文章が「俺、私」のような一人語りになる場合は、「一人称本人視点」となり、語り部となる主人公本人の視点で話を展開することになります。
 それとは異なって、歴史大河小説のように、時代全体を見渡しながら登場人物たちの動きを追っていくような場合は、「三人称他者視点」、俗にいう「神の視点」で話を作っていくことがあります。
 視点が違うとどうなるのかと言うと、一つ一つの表現に対して、価値観や感情の置き所が変わってくるのです。

例えば、前述の「一人称本人視点」の物語の中で、主人公の目の前で人が一人殺されてしまったとします。その衝撃はいかほどでしょうか。主人公はショックを受けたり恐怖を覚えたり、場合によっては激しい怒りを覚えます。物語は、人の死を見た主人公の心の動きを表現しながら展開することになると思います。

 対して、「三人称他者視点」で歴史小説を見るとどうでしょうか。

 慶長〇年〇月、ついに合戦の火ぶたが切られた。初戦では〇軍が勝利、△軍は敗走、二千余の討死を出したのであった。

 といった感じに、「二千人くらい人が死んだ」という事実が、さらっと語られてしまいます。雑兵一人一人の人生は語られませんし、槍で殺された甚兵衛の死を目の当たりにした弥次郎の悲哀、みたいなものも語られません。二千人死んだ、という事実だけ読者に確認してもらって、そのまま物語が進んでいきます。

 じゃあ、後者の小説は、「個々の命の大切さを顧みない、非情な弱者差別主義小説」などと言われるでしょうか。んなことはありませんね。なぜなら、物語を見るときの「視点のスケール」が違うからです。

 昔からある人気ゲームで、「シムシティ」「シムピープル(ザ・シムズ)」というシミュレーションゲームがあるのをご存知でしょうか。前者は、プレイヤーが市長となって、都市開発を行っていくゲームです。後者は、その「シムシティ」の住人である「シム(人間)」の人生にプレイヤーが介入して、シムの人生そのものをシミュレーションするのが目的です。

 どちらも、「三人称他者視点」という神視点でプレイすることになりますが、「シムシティ」では、個々の人間の生活を眺めることはあまりできません。「人間」は「人口」という数値で表現されていて、災害や事故が起こるとゴリゴリ減っていきます。そこに、死者に対する思いなんてものはありません。人の死とは、人口がぺけぺけと減っていくこと。プレイヤーは、やべえ、人減っちゃったよ。税収も減っちゃうよ。復興の財源をどこから持ってこよう、ということを考えます。死んだ人はなんてかわいそうなんだ、とは(たぶん)思いません。

 つまり、国家や都市を動かす「国会議員」や「大都市の首長」の視点で見た「人間」というのは、そういうスケールになりがちだということです。

 対して、「シムピープル」では、もっと視点が個々の人間に近づいて、一人のシム(人間)の生活に密着することになります。プレイヤーが上手く助けてあげれば、シムの服のセンスがよくなったり、恋が成就したりします。地方自治体や身近な公的機関が、ある家庭や個人に細やかなサービスを提供しよう、という場合は、「シムピープルの視点」で対象を見ることになります。「児童相談所」とか、「障がい者支援組織」などの視点と考えるのが近いでしょうか。

 つまり、文章を組み立てるときは、この視点スケールを保つ必要があります。この視点スケールが読者と噛み合わないと、作者の意図は伝わりませんし、読者を混乱させることになるのです。
 もし、作中で視点スケールを変える場合は、場面転換や時制の変化などを入れて、読者に頭を切り替えてもらう必要があります。作家や編集者は、一つの場面でこの視点や視点スケールがブレていないか? ということを気にしながら物語を作っています。

■「生産性」という言葉だけ、視点スケールが違う

 さて、ようやく本題の杉田議員の寄稿文ですが、多くの批判を集める「生産性」という言葉は、前述の「シムシティ」の視点の言葉です。「人口統計」とか「将来予測」とか、国民を「数値」として見るマクロな視点で使われる言葉なのです。
 マクロな視点スケールで人間を見る場合は、個々の事情とか、感情というものは意味を持ちませんので、文章中でもいちいち考慮には入れません。
 例えば、警視庁が発行する「交通安全白書」に、交通事故による死者の数が、年〇人、という記載があったとして、その一人一人の人生を振り返り、遺族に対する哀悼の文章を入れていたら、肝心の「統計」の部分がぼやけて、なんかよくわけのわからない白書になってしまいます。
 交通安全白書が、一人一人の死にまつわるエピソードを語らなくてもよいのは、「視点スケール」が、マクロな位置にあるからです。文書の位置づけがそもそも違うのです。

 なので、杉田議員の寄稿文自体が、人口統計や少子化対策といったマクロの視点で展開されていたとしたら、子無し家庭の人口増に対する寄与はゼロということ自体は厳然たる事実ですから、「生産性がない」という表現を使ったとしても、これほど批判されるようなことはなかったと思います。

 まあ、もう一つの批判ポイントは、「LGBTカップルは子を持たないから生産性がない」という認識自体が大間違い、ということでしょう。LGBTでも男女カップル(例えばバイセクシャル同士とか)になって、現行法の範囲内で子をもうける家庭もありますし、同性カップルでも養子などを取って育児に時間的・経済的コストをかければ、それは将来的な人口増に対する立派な寄与ですから、「生産性はある」ということになります。そこに税金をかければ、費用対効果も見込めるはずです。

 とはいえ、そういうところはあえて僕が批判しなくても、今現在ありとあらゆる人が袋叩きにしているところだと思いますので、この場では詳しく論ずることは致しません。すみません。

 話を戻しますが、杉田議員の今回の寄稿文は、視点スケールとしては「シムピープル視点」と言いますか、LGBTや性的マイノリティ個々人の視点スケールで、ストーリーが構成されています。杉田議員の身の回りにいるLGBTの方の語ったことですとか、その生きづらさについての言及があったりとか。学校における制服の問題、パスポートの性別記載の問題など、比較的、個人の視点で見た世界の中で遭遇する出来事が話の軸になっているのです。

 しかし、「生産性」という言葉だけ視点スケールが違うので、本来、筆者が言わんとした意味と、本文中における「生産性」という言葉の意味するものが、まったく違うものになってしまったのです。

 歴史小説ではさらっと語ることが許されていた「二千人討死」という言葉を、個人の内心の描写が主体の小説でいきなり出したらどうなるでしょう。目の前で二千人という大勢の人がなくなっても、「二千人死んだわ」で終わらせて、特に関心なく次の行動にひょひょいと移る主人公。そんな人の心を持たない主人公に、読者は感情移入なんてできなくなってしまいます。

 あの寄稿文を読んだ人の多くは、LGBTという性的マイノリティの方個々の苦しみ、生きづらさ、辛さ、そういうものと寄り添いながら(視点のレベルをおきながら)、文章を読んでいたはずです。そこにいきなり「生産性」という、マクロ視点の言葉がぶっこまれたので、文章にまったく溶け込まず、完全に浮くことになってしまいました。

これがたぶん、「生産性」という言葉がことさら批判を受ける要因のひとつじゃないかな、と思います。

 個々の事情を鑑みれば、同性婚を選択したカップルの葛藤や、子供が欲しくても持てない苦しみ、といったものが垣間見えてきます。そういうものを、「生産性」という言葉で片づけられてしまったら、そりゃ当事者は誰だって傷つくでしょう。

 「生産性」という言葉自体は、視点スケールを間違えなければ、さほど差別的な言葉ではないはずですが、今回の寄稿文の視点スケールにおいては、個々の事情を顧みない言葉の選択は、完全にミスマッチでした。
 これは、杉田議員のミスでもありますが、同時に、「この言葉使って大丈夫ですか?」という指摘をしなかった編集者のミスでもあると個人的には思います。筆者というのは、時にこういう間違いを犯しますから、それに気づいて指摘するのは編集者の仕事だからです。
 指摘したけど筆者に直してもらえなかった、という可能性もありますが。

■だがしかし、「差別的」という批判はどうだろう

 今回の件で、杉田議員は「差別論者」「ヘイター」という批判を浴びております。かなり感情的な批判をぶつける人も多くいます。ですが、そういう批判はやや極端というか、単なる「レッテル貼り」のようになって、批判の範疇を超えて誹謗中傷のレベルに落ちてしまうんじゃないかな、という危惧があります。

 寄稿文全体を通してみると、杉田議員が、新しい価値観を尊重することよりも、現状の価値観を重視したいという思想を持っているということはわかります。LGBTや性的マイノリティと言った価値観よりも、旧来の「男は男らしく、女は女らしく」という価値観を尊重したいと思っている人であるようです。
 では、そういう価値観を持つことは、性的マイノリティに対する差別感情をもっていることになるのか。そう問われるならば、僕は「イコールではない」と言わざるを得ないと思います。
 つまり、今回の寄稿文だけでは、杉田議員が実際に性的マイノリティに対する「差別意識」を持っているかどうかまでは、確実には判別できないわけです。持ってるかもしれないんですけど。
 この方の場合、そもそも日頃の言動が挑発的だったりするのでかなり濃いめのグレーではあると思いますが、人の内心は絶対に他者には判別できませんから、差別論者であると決めつけた上での批判は、あまりよくないと僕は考えます。

 杉田議員個人の意識がどうかは別として、新しい価値観に対して抵抗感を持つ人というのは、どうしても社会に一定数存在すると思います。そういった人の言動や主張を、すべて「差別」と叩き潰すのは、違った価値観を持つ者の間で対立を生むだけじゃないかな、と思うのです。
 相容れない価値観、思想、宗教などを持つ者同士が、同じ社会の中でどう共存するか。それを「寛容」の精神で追求することに、差別という問題に対する答えがある、と僕は思います。

 ちょっと、「作家視点」というところから逸脱してしまいましたが、昨今強く思うところではありましたので、ここで少しだけ語らせていただきました。

■まとめ

「生産性」という言葉自体には、必ずしも差別的意図があるとは限らない。
ただし、寄稿文の「視点スケール」においては、不適切な表現であった。
個人の視点で語るのであれば、もっと表現に配慮する必要があった。
これは、文章を書く上でのミスである。
筆者のミスだが、指摘して修正を指示しなかった編集者の責任も否めない。


以上、「物書き」視点で見る、杉田水脈議員の寄稿文問題、でした。

小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp