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その時々を感じて (エッセイ等)

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今 生きているこの時を 感じるままに書きました
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#詩

ゴッホの作品に衝撃を受けて半世紀…。

私が14才の時 ゴッホの伝記に掲載されていた「悲しみ」という作品を見た時 衝撃を受け 30号位の板に母に貰ったシーツを貼り油絵の具で 一気に模写をしたことは忘れられません。 それから 絵描きを目指して半世紀になりました。 20才の時 切り絵作家の宮田雅之氏の個展と出逢い 「切り絵をやってみたい」とすぐ材料を求め 切り絵作品を20点作り 銀座のギャラリーで個展を開いたのが24才の時でした。 自分の性格に合っている切り絵を制作し続けましたが 切り絵は 当時 工芸のジャンルで

宮沢賢治から学ぶ「心象スケッチ」

雨にも負けず 風にも負けず  雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち 欲はなく 決して瞋らず  いつも静かに笑っている 一日に玄米4合と 味噌と少しの野菜を食べ  あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見 聞きし 分かり そして忘れず 野原の松の  林の蔭の 小さな茅葺きの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり  西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないから止めろと

教室を開いて18年の間に・・・

この湘南平塚に私がアクリル画教室を始めて 早いもので年が明けると19年目に入ります。 思えば18年前は、アクリル絵の具と言うとデザインの世界で使われている位で、アクリル画と言う認知度も低く油彩画が主流でした。 当時、ネットでアクリル画教室で検索してもほとんど出て来ませんでした。 アクリル絵の具の使い勝手の良さ、又いろんな支持体との相性の良さを知り これからはアクリル画が主流になっていくのではないかと考え アクリル画教室を立ち上げました。 そしてアクリル画だけでなく、絵画一

ピータン・・・

祖父は中国人との係わりが多少あったのかもしれません 幼かった私の記憶の中にも中華料理に使う ピータンを作る 中国人が 我が家に出入りしていた様な気がします 祖父は明治時代に生まれた5男坊ですから 当時は親からの財産分与も有る訳でもなく 自らの力で生活しなければならなかったのでしょう 60年も昔の話しですが 「あひる」の養殖と時を同じくして 「キクラゲ」の栽培も始めました これも中華料理に良く使われる食材です 祖父は「ムジナ」を捕獲する為に 罠をしかけに

狸(ムジナ)の養殖・・・

祖父が養殖したのは「ムジナモ」ではなく 狸「ムジナ」そのものです 祖父は元々料理人で魚市場や調理後に出る 魚のアラなどが手に入り易い人でした 狸は雑食で何でも食べるので 餌として与えるのには 都合が良かったのかもしれません 養殖の目的は もちろん毛皮を捕る為です 狸「ムジナ」の毛皮は防寒具として珍重され 軍や一般の人も多く利用したらしく マフラーにしたり コートにしたりと 需要はかなりあった様ですが やがて人工毛皮が出回り始めると すぐにその仕事はや

ところで・・・

天然記念物となった僕達なんだけど 幾度かの洪水で根こそぎ流されて 今は絶滅危惧種として大切にされている 養殖で育てられ毎年川に放流されて 命をつないでいるのさ ところで「ムジナモ」の話はこれくらいにして 祖父の話しを少ししてみたいと思う 彼は「ムジナモ」が発見された同じ頃 九州の瀬戸内海でに面した 豊後水道の海辺で生まれた 祖父の先祖 つまり私のルーツでもあるわけだが その先祖は村上水軍と同時代に 豊後水道を取りしきる海賊の長だったらしい しっかりと

日本では・・・

僕達「ムジナモ」は1890年 今から130年程前に 江戸川で発見されたんだ 誰にも見つからない様に じっと身を潜めて 長い時間 川底にしがみついていたのに 牧野富太郎と言う植物学者に 見つかってしまったのさ それからと言うもの 僕たちの家族は 日本のあちこちの川や沼に放流されて 一家離散の憂き目にあったけれど おかげで日本全国に親戚が増え 世の中に知られる様になったんだ それはそれで住みにくい川や沼もある アオミドロが大量に生えてる場所は 僕達は苦手な

本当は・・・

僕たちの名前は「ムジナモ」って言うらしい みんな知ってた? 本当は「プリンスプリモ」って親から聞いていたんだけど 人間が勝手に名付けたんだ それも植物学者と言う偉い人らしい 僕たちの姿が タヌキのしっぽに似ているからと言って それは無いだろう  ねえ みんな! 本当に本当「プリンスプリモ」なんだから この間は小学生の野外学習やらで 僕達の小川へ大勢の子供達がやって来た その時も 小学生や引率の先生も僕達を指さして 「ムジナモ」「ムジナモ」って 大合唱す