見出し画像

【ロシア1994年-1995年】さらばモスクワのトロリーバス «Прощай, московские троллейбусы!» Vol.4:トロリーバスで都心歴史あれこれ妄想散歩

本記事は有料記事にしてありますが、オープン記念として全文を無料で読める設定にしてあります。不肖私めの写真生活や創作活動をサポートしたいともし思ってくださったら、投げ銭などをしていただくのは大歓迎です。ご厚情にたいしてあらかじめ謝意を申し上げます。

■バスで「都心をお上りさん」散歩する

モスクワ「銀の森セレブリャヌィ・ボール」のなかの「モスクワ川岸」バス停留所の話のところにも書きましたが、私は東京都内在住だった大学生のころに、新宿西口から晴海埠頭を結ぶ路線バスにときどき乗っていました。東京都交通局(都バス)「都03」系統といい、いまは短縮されて四ツ谷駅前(停留所表記は「四谷駅前」)と晴海埠頭を結んでいます。

この路線は新宿から新宿三丁目、四ツ谷、麹町、半蔵門、三宅坂、日比谷、有楽町、数寄屋橋、銀座、築地、勝どきというルートを通って晴海にあった客船ターミナルにたどり着きます。上智大学、TOKYO FM、国立劇場、国会議事堂、警視庁、皇居、銀座、築地市場、勝鬨橋という有名な施設を見ながら走るというわけです。ちょっとした都心散歩のように思えて興味深いと思いませんか。

興味深いですよね。興味深く思ってくださいホトトギス。

異性とデートするでもアルバイトに精を出すでもなく、あるいは日本全国や世界各地を旅するのでもなく、路線バスに揺られて都心の有名施設を眺めて、晴海埠頭に出て客船ターミナルで過ごすとは。いま思うと、おとなしい文系大学生らしいモラトリアムの過ごし方なのかもしれません。ぶっちゃけ陰キャじゃんか……「そういうところやぞ」といまになると思えます。

ガっ、ガールフレンドはいたんだからねっ! ガールフレンドの写真を撮ってたし!

東京都内在住時からそういう、遠回りの公共交通機関に乗る遊びをして、ああなるほどここを通るのか、あれはこうなっているのかふむふむそうかそうか、などと思いを巡らせ、そうして大きな川や海岸などのどこか開けた場所にたどり着くと「わあい」と感激していた人間です。そこでモスクワでも似たようなことを始めました。

それが、住んでいた南西部からモスクワ市内都心部ツェントルへ行く、あるいは帰ってくるのに、最短距離で所要時間もかからない地下鉄を利用するのではなく、トロリーバスや路面電車を利用する遊びというわけです。さらには都心部でもトロリーバスをできるだけ利用する遊びでもあります。遠回りになってでも、車内から都心部の有名な建物を見ることができる路線がおもしろいなあ、と。気分はお上りさんです。せっかく外国にいるのだしね。

モスクワは独ソ戦でも空襲はあっても、モスクワ市北西部のヒムキでドイツ国防軍の進軍を食い止めたために、都心部は大きな戦火に遭いませんでした。そういう理由からか、さらにどうやらロシアのみなさんの国民性らしい「使えるものは修理しながらできるだけ長く使い続ける」という精神のたまものによるからなのか、古い建造物を修繕しながら使い続けていることが非常に多いのです。その結果、モスクワの都心部には歴史的な建造物がたくさんあります。

今日はそのうちの、ほんのひと区間のことをお話します。正確にいうと、そのひと区間のなかでいろいろなこぼれ話をご披露いたしましょう、かな。

Google Mapよりキャプチャ。赤い丸のあたりで写真を撮っています
地下鉄「アホートヌィ・リャト」駅入口でもある地下横断通路入口。
左奥は「ホテル・モスクワ(現 フォーシーズンズ・ホテル・モスクワ)」
右奥がマネージ広場で商業コンプレックス「アホートヌイ・リャト」の工事中です。
広告は「コムソモーリスカヤ・プラウダ(共産党青年団のプラウダ)」紙。
「私たちは毎日驚いています」というコピーは90年代だからなおあれです。
デートする男女の隣で男性がビールを飲んで喫煙しているのも90年代らしいかも
Google Street Viewよりキャプチャ。
上の写真にある画面左側の地下横断ロ入口が写るようにちょっと引いています。
2021年5月のようす。
右は「ホテル・ナショナル」で左はロシア国家院(連邦議会下院)議事堂
国産車「ジグリ(ラーダ)」「モスクヴィッチ」「チャイカ」が見当たりません

■マネージュ広場からボリショイ劇場を経て

いきなり都心部の「マネージュ広場」から話を始めます。赤の広場北西にある広場で、アレクサンドロフスキー庭園、国立歴史博物館、考古学博物館、スターリン建築である「フォーシーズンズ・ホテル・モスクワ(当時はホテル・モスクワ)」に囲まれています。「ホテル・ナショナル」の目の前です。革命前は乗馬場だったそうで、フランス語での"manège"からロシア語で«Манеж»と呼ばれるようになりました。モスクワ大学旧館の向かいにある白い建物がその乗馬場ですね。いまは「マネージュ中央展示場」といいます。

ロシア語の発音としては「マネーシュ」と無声化するので「マネーシュ広場」と書きたいところです。また、日本語の慣用では「マネージ広場」とも。ソビエト時代は「10月革命50周年広場」と呼ばれていました。

マネージュ広場は1994年から1995年当時には建設工事が進められていて閉鎖されていましたが、その後この地下には商業コンプレックス(地下ショッピングモール)「アホートヌィ・リャト」ができました。地下鉄ソコーリニチェスカヤ線に同名の駅があります。ソビエト時代は「マルクス大通りプロスペクト・マルクサ」という駅名でしたが、1990年に革命前の地名にちなんだ名前に戻されました。アホートヌィ・リャトとは「狩場」という意味ですね。地下鉄アルバーツコ・ポクロフスカヤ線「革命広場プローシャジ・レヴォリューツィ」駅とザマスクヴァレツカヤ線「劇場チェアトラーリナヤ」駅とは地下連絡通路がつながっています。

このあたりはクレムリンのすぐそばであり、モスクワの最中心部といっていいところです。「トヴェルスカーヤ通り」がここから始まります。上の写真はトヴェルスカーヤ通りからマネージ広場と左右を横切る「モホヴァヤ通り」を見ています。

上の写真の右に向かうとレーニン図書館やモスクワ大学旧館です。今回は左側に向かってみましょう。ホテル・モスクワの側に渡りホテルのものすごく大きな建物に沿って少し歩くと「劇場チェアトラーリナヤ広場」の前に出ます。

画面左を向くとボリショイ劇場、マールイ劇場のある「チェアトラーリナヤ(劇場)広場」
正面右側は革命前からある超有名高級ホテル「メトロポール・ホテル・モスクワ」。
佐藤優さんの小説によると、カフェでは当時はめずらしい生クリームのケーキがあったそう。
1990年代のロシアで店で売られているケーキのほとんどは、バタークリームだったのです
正面を見るとボリショイ劇場があります。
劇場前が「チェアトラーリナヤ(劇場)広場」
トロリーバスに隠れていますが噴水広場があり、
モスクワでは有名な「発展場」だとかなんとか
後ろを見るとカール・マルクスおじさんの銅像があります。
周囲は「革命広場(プローシャジ・レヴォリューツィ)」です。
「万国の労働者、団結せよ!」と刻まれた台座の周りに
労働者子弟が団結してスケートをしていますね。
彼女は台座にぶつかりそうになったのかな。ははは

進行方向左側の道路反対側にはボリショイ劇場とマールイ劇場、正面には「ホテル・メトロポール・モスクワ」があります。いずれも1917年のロシア10月革命以前に建てられた建物がいかされているので、いかにもヨーロッパという雰囲気を色濃く残しています。この方向を見ているとね。

いっぽう右側を向くとカール・マルクス像があります。このカール・マルクス像を中心に「革命広場プローシャジ・レヴォリューツィ」が広がっています。私にはこの先生への思い入れは少しもありませんが、あのカール・マルクスですよ。台座には「万国の労働者、団結せよ!」と刻まれています。ペレストロイカの時代にはその台座に「万国の労働者、ごめんなさい!」という落書きがなされていたと、米原万里さんのエッセーにありますね。

ここにトロリーバス乗り場がありますので、今回はそれに乗ってみます。歩ける距離なのですけどね。都心なのでいろいろな系統が通りますから、バスもトロリーバスも次々にくるはず。歩いてもいいのですが、春から秋にかけては通りもほこりっぽく、なにか飲み物を持っていないと喉が渇きます。

■ジェーツキー・ミール1階のビストロ

道路はここから先の「ルビヤンカ広場」までゆるく勾配を描いています。進行方向左側の席に座って左側を見ると、子ども用品のデパート「ジェーツキー・ミール(子どもの世界)」が建っています。ここのゲームセンターには当時、ゲームセンターがあった記憶があります。ゲームに興味が持てない私でもわかるような古い端末がたくさんありました。

ジェーツキー・ミールの正面はこちらも有名な高級ホテル「ホテル・サヴォイ・モスクワ」があります。そしてジェーツキー・ミールの建物のホテルに面した1階には当時ビストロがありました。めずらしく「ビストロ」と名乗る店でした。

ソビエト時代には食堂スタローヴァヤという、安く食事ができる店が町中あちこちにあったようです。ただ、もともとあまり多くはありませんでした。当時のレストランというと、特別な日に予約を入れて正装で出かける場所ばかり。94年から95年にかけては、モスクワには気軽に入ることができて、清潔なお手洗いもお借りできるファストフードの店やカフェはまだ少なかったのです。

地下鉄駅などの道端でシャウルマ(ドネルケバブのこと。サンクト・ペテルブルクでは「シュヴァルマ」というそうですよ)、ホットドック、インスタントコーヒーを売るスタンドは雨後の筍のように増えていたのですが。

そういうわけで、都心に出た際に「屋根のあるところで、そう値も張らずに座ってコーヒーも飲むことができて、お手洗いも清潔な、マクドナルド以外の店」としてそのビストロには何度か通っていました。外資系スーパーマーケットのフードコートもいくつかはありましたが、長居はできませんでしたし。

ロシアのトイレといえばほら……かの椎名誠パイセンが『ロシアにおけるニタリノフの便座について』で書いていたように、90年代でもソビエト時代のままの……公共の場所ではうかつなところで借りると、ここでは書けないほどにあれなのです。「お手洗いの使い方を知らないひとが非常に多くいるのではないか」と思えるほどに。椎名誠パイセンは怨恨説を書いていましたね……それほど……ここに便器があるというのになぜ……それ以上は書けません。

現場猫でも「ヨシっ!」といわなそうです。だって「事故」はすでに起きているもの。

ただし、ホテルやグム以外のデパート(ここご存じの方は笑うところ)、飲食店などにあるもの、あるいは有料の施設であればずいぶんましです。だから、当時は「市内まともなお手洗い脳内リスト」を作り友人たちと共有していました。

この「ビストロ」のことをよく覚えているのは、まずその名前のせい。

フランス語でこじんまりとした食堂や居酒屋を意味する"bistro"という単語は、ナポレオンのロシア遠征を追いかけてパリを占領したロシア兵たちが使った«быстро / bystro»という単語に由来するといわれています。勤務中に上官に隠れて店に入り「さあ早く酒を出してくれ。はやく、はやく!ブィストラ、ブィストラ」と急かしたとか。その「はやくして!」という単語をフランス人がおもしろがって、店の名前にしてしまえというわけで用いられ始めたという逸話を知っていました。

だから、その「ビストロ」がモスクワにできたというのは、ちょっとおもしろい。

もっとも、このビストロはふつうのスタローバヤと同じカフェテリア方式の店でメニューもロシアふう。グリャシュ(グーラーシュ。ハンガリーふうパプリカシチュー)やキエフふうカツレツカトレータ・パ・キーエフスキー、ボルシチがあり、肉料理のサイドディッシュガルニールマッシュドポテトカルトーシュカそばの実グレーチカを選ぶことができたはず。ほんとうに、ごくふつうのロシア料理の店です。お酒もありました。

そして夜になると照明を落として大音量すぎるバンド演奏が始まるという、ソビエト時代の要素も残されていた店でした。ソビエト時代のレストランは夜になると、会話ができないくらいの音量で音楽を流していたのです。ただし、値段がそう安くはないぶん清潔で味つけもよく、常連客以外の外国人が入りにくいとか、客引き中の売春婦と目つきの悪い用心棒がいるような感じはなかったのは気が楽でした。いまはべつの店になっているようです。

あるときのこと。ひとりで食事をしていたら隣の席の男性グループに声をかけられました。日本人で文学部の学生だと名乗ると「俺ぁロシア陸軍の少佐なんだよ」「日本の軍隊の給料をお前知ってるか」「ああ、わかってるよ。軍隊アールミヤではなくて自衛隊バイスカー・アバローナだろ」「なに、初任給は20万円くらいだと」「ロシア軍はなあ、将校である少佐でも月給が3万円ぽっちだ」「しかも遅配で何ヶ月も払われていないんだぜ」「チェチェンでロシア軍が勝てないのはそういう理由だよ」「ばかばかしくて戦えるかよ」「お前は国に帰ったらジャーナリストになって、このことを書いてくれよな」と、同志少佐殿タヴァーリシー・マヨールにヴォトカをごちそうになったのであります。

私はジャーナリストにはならなくて編集者になったので、記事にする約束はなかなか果たせませんでしたが、こうしていまようやく果たせました。時間がかかったこととオーソライズされた紙媒体ではないこと、それにお手洗いの話もセットなのは同志少左殿のお気に召さないかもしれませんが。

ひとりで食事をしている外国人に酒をおごって話しかけるという習慣は、日本国内ではそうそうないですよね。彼らのこういう人懐こさが好きです。

トロリーバスに乗り込みました
進行方向左側に向けてカメラの用意をします。
バスが勾配を登ると車窓には子ども用品のデパート
「ジェーツキー・ミール(子どもの世界)」が見えてきました

■ルビヤンカの旧ソ連国家保安委員会本部

ジェーツキー・ミールをすぎるとルビヤンカ広場です。スパイ小説、あるいはソルジェニーツィンなどのラーゲリ小説を読み慣れているひとは「ルビヤンカ」という単語だけで感慨にふけるかもしれません。その広場に面して大変有名なビルがあります。旧ソビエト連邦国家保安委員会(KGBカーゲーベー)の本部ビルです。ルビヤンカはKGB本部を示す隠語としても有名ですね。

ぽまいらの好きなKGBだ。

このビルのなかの監獄のようすは、ソルジェニーツィンの小説『煉獄のなかで』『収容所群島』にもあります。

ソ連崩壊後に国家保安委員会は分割され、いまでは後継組織のひとつであるロシア連邦保安庁(FSB)の本部ビルなのだそうです。ソビエト時代は秘密警察初代長官フェリックス・ジェルジンスキーの名前を記念して、ジェルジンスキー広場とよばれ、銅像が建てられていました。その銅像が当時のモスクワ市長ガブリール・ポポフの命令により、クレーン車で引き倒されるシーンは1991年の8月クーデーターでもっとも有名な場面のひとつですね。

ちなみに、その倒されたジェルジンスキーの銅像はモスクワ川のクリミア橋近く、ゴーリキー公園向かいにある芸術会館の庭に運び込まれて、いまでも見ることができます。

1995年の春でも、もしかしたらいまでもこのビルの前でおおっぴらに写真を撮っても、べつにとがめられないのかもしれません。気が小さい私はトロリーバス車内からこうしてカメラを向けて写しただけ。これでも、バス車内でだれかに制止されたらやめようと思っていました。でもそれどころか、1年間のモスクワ生活でカメラを持っていてとがめられたことも止められることも、ほとんどありませんでした。運もよかったのかもしれませんし、私のひとり相撲だったようです。

ただ、どうやらいまはお巡りさんに誰何されることはあるようですよ。

バスが「ルビヤンカ広場」に出ました。かの有名な旧ソ連国家保安委員会(KGB)本部ビルです。
右側がぼんやりしているのはバスの窓が汚れているから。
右側の車はエンストをしているのでしょうか。よりによって旧KGBビル前で。
F8までしぼって1/250秒で撮っていますが、ソ連製レンズJupiter-12はよく写りますね

地下にはKGB博物館があり、建物左側に表示のないめだたない入口がありました。博物館を訪問したことはいちどだけあります。スパイとテロとの戦いの歴史について展示してあり、キム・フィルビーについての展示もあるのですよ、と係員氏がちょっと自慢げに説明してくれました。

引率の先生はキム・フィルビーのことはご存じないまっとうな方でけげんそうな顔をされていました。しかし、私はひとり「オウフ、キタコレ拙者」と興奮し、先生に「『ケンブリッジ・ファイヴ』と呼ばれた、ケンブリッジ大学出身の有名なイギリスの二重スパイのうちのひとりですよ」と教えてあげました。係員氏はその「ケンブリッジ・ファイヴ」という単語に反応して「ダー」とにっこり。

ところが、スパイ小説が好きなのにソビエトの治安機関の組織系統についてわかっていなかった私は、係員氏に「リヒャルト・ゾルゲについての展示はないのですか」と質問をしました。すると係員氏が「ゾルゲは参謀本部のエージェントだったから、ここには展示はないのです」と。

ゾルゲはKGB(当時であれば内務人民委員部NKVD)とは関係がなく、労農赤軍参謀本部、のちのソビエト軍参謀本部情報総局、いまのロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)と呼ばれるべつの組織の司令下にあった工作員なのです。

ああそうか、なるほど、KGBとGRUのちがいか……とようやく知ったわけです。ソビエトにもロシアにも武装した治安機関がたくさんあるので、理解しづらいのです。ただ、内務省・警察系統の組織と軍系統の組織があるということです。

KGB職員は軍人として扱われますが、KGBという組織自体は治安維持を主目的とした保安警察の系統の組織であり、GRUは諜報活動をおもとした軍の組織です。両者の活動領域が重なることはあるかもしれませんが、まったくべつの組織なのです。現在でもFSBは大統領に直属しますが、GRUは国防大臣の指揮系統にあります。

考えたら日本にも、刑事警察以外に海上保安庁、公安警察や外事警察といった警察系統の治安組織があり、防衛省の系統に調査本部がありますから、私が不勉強なだけですね。

そういうことを当時ももっと知っていれば、より興味深く展示を見ることができて、より強く記憶に残ったのでしょう。知識がないといろいろとそういうチャンスを活かせなくて惜しいことをします。いまなら係員氏にいろいろ質問できるのだけどなあ。残念ながら、この博物館はいまはなかなか公開されないようです。

どんなことであっても勉強はたいせつなんですよ。まるで森高千里の歌みたいです。森高はおばさんにならないのに、私はすっかりおじさんですよ。

■有名なあのおじさんの銅像はカルーガ広場に健在

カルーガ広場(旧 十月広場)にはかのレーニン像が2022年現在も健在です。
写っているトロリーバスはトロリーポールを降ろしていますが
広場の真ん中で故障したのか留置中なのでしょうか

このあとトロリーバスは地下鉄「キタイゴロド」駅を目指す系統と、地下鉄「チースティエ・プルーディ」方面を目指す系統にわかれます。私が乗っていたのはおもに後者で、そこから地下鉄や路面電車に乗り換えていました。

キタイゴロドとは「チャイナタウン」という意味ですが、いまではいわゆる中華街があるわけではありません。大昔の外国人街であった名残りが名前に残っているだけです。

現代史が好きな方には、このキタイゴロド駅が最寄りのスターラヤ広場にはソ連共産党中央委員会のあるビルがあり、「スターラヤ広場4番地」という単語も、ソ連共産党中央委員会を表す隠語だったなどということも興味深く思ってくださるかも。いまはロシア連邦大統領府として使われています。ほかには「ペトロフカ38番地」という、ロシア内務省モスクワ市警察本部をしめす有名な言葉ありますね。

「永田町」「霞が関」「桜田門」「市ヶ谷」「代々木」などという隠語は日本にもありますし、おもしろいですね。

残念ながらこのあたりを撮ったまともな写真がどうも見当たりません。そこで、マルクスとルビヤンカときたからには、べつの有名なおじさんの銅像で話を締めたいと思います。

Google Mapよりキャプチャー。赤い丸があのおじさん像のあるカルーガ広場

このトロリーバスでモホヴァヤ通りを反対方向に乗り、モスクワ川のボリショイ・カーメンヌイ橋を越えてヤキマンカ通りをずっと行き、「カルーガ広場カルーシュスカヤ・プローシャジ」に行くと、かのウラジーミル・レーニンおじさんの銅像があります。あのおじさんです。2022年のいまでも健在だそうですよ。「アクチャーブリスカヤ(10月)広場」という名前は改名されましたが、地下鉄の駅名はいまでも「アクチャーブリスカヤ」です。

昨年夏にグーグル・マップで見たら日本語でも「パーミャトニク・レーニヌ(有名な政治家の像)」とロシア語の「レーニン像」をカタカナ書きした表記だったのでげらげら笑っていました。「たしかに銅像には人名は与格で修飾するから『レーニン』は『レーニヌ』と変化するけどさ」「ロシア語がわからないひとにはまったく意味がないじゃないか」「しかもソビエト時代はレーニンは『政治家』ではなく『学者』だといわれていたんだぜ」と思い、修正を申請したものです。かのおじさんを「政治家」扱いするのはもういいと思うのですが。ソビエト時代ではないからぽまいらの好きなNKVDやKGBの「黒塗りの自動車のお迎え」も来ないでしょうし。

いま見たら直っていて安心しました。ただし、グーグル・マップで見るとそういうものがたくさんありますね。「ポーチタ・ラシー(ロシア郵政、つまり郵便局)」「ミニステルストヴォ・ヴントレンニフ・デル・ラシースカイ・フェデラツィイ(ロシア連邦内務省)」「ミニステルストヴォ・オボロニ・ラシースカイ・フェデラツィイ(ロシア連邦国防省)」だなんて、カタカナで書いてあってもロシア語を知らないひとにはまったく意味を持たないでしょうに。そのカタカナを読んでも通じなそうだし。

この写真をロシア人の友人たちに見せると、みなじつに嫌そうな顔をしていたものです。「レーニンを私はたたえているわけではないんだ。いまのモスクワに存在するから写しているんだよ」と説明しても「それでも、ほかにもいろいろなものがモスクワにあるのだから、なにもこんなものを写さなくていいのに」と。

以上、わずかな区間をバスに乗るのでもいろいろとおもしろいモスクワ都心部のお話でした。もちろん、歩いてこれら表通りからいろいろめぐると楽しめます。サンクト・ペテルブルクほどではなくても、文学や歴史の知識があると「ほほう、ここがあれか」と思えて興味深く過ごすことができますよ。

【撮影データ】
Nikon New FM2, FED-3/AI Nikkor 35mm F2S, Jupiter-12 35mm F2.8/SVEMA FOTO 100

ここから先は

0字

¥ 500

サポートいただけたらとてもありがたいです。記事内容に役立たせます!