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「わからない」から始まる好奇心

なんかいい。すき。かわいい。
そんなプラスの感情から湧く好奇心もあるけれど、「わからない」という不安や違和感、ちょっとした拒絶反応から始まる好奇心もあると思う。

私が興味を持っているもののひとつにアート(美術や芸術と言い換えてもいい)があるのだが、このアートへの関心も、最初は「わからない」から始まった。

最初に美術に触れたのは、高校の美術の時間だったと思う。
ゴッホ、モネ、ピカソ。
機械的に、作者名と代表作の作品名を紐づけて覚えた。

もう少し進み、大学受験のときに、歴史の授業で再び登場した。
私は日本史を選択していたので、「文化史」というかたちで日本史のなかに美術が登場するのだ。このときは、その作品が生まれた文化的背景なども一緒に学ぶので(すべてを丁寧に教えてもらえるわけではないが、その一端を垣間見ることができる)、美術を見る目が少し立体的になった。

また、個人的な体験としては、学校内に宗教画が多かったというのもある。
在籍していた学校がキリスト教系の私学だったので、校内に複製画がたくさんあったのだ。聖母子のイコン、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」、ミケランジェロの「最後の審判」など。

日本人として生まれ育つと、なかなか宗教画の位置付けなどがわかりにくい部分もあると思うが、こうした経験から、なんとなく日常のなかでの宗教画の立ち位置のようなものがわかった気がする。

と、ここまで書いてくると、こうした私の美術への興味関心は、まったく作品自体に向けられていないことがわかる。作品自体については、全然理解できていないし、なんの感情も動かされていないのだ。

作品を見るようになったのは、大学に入ってからだ。
世間一般的に「いい」とされるものの価値が、まったくわからない。
そしてそれはどうやら私の周りもそうで、「芸術やアートはわからないもの」ということが、ある種共通認識となっている(ような気が、私には、した)。
なのに歴史的積み上げられた評価としては「名画」とされている。
その不思議。

何故この作品が「よい」とされているのか?この絵から何を感じ取れるのか?何が人の心を動かしているのか?

それがわかりたくて、私は美術鑑賞の入り口に立ったのだ。

こんな変な入り方をするのは私くらいかもしれない。
最近はアートもだいぶ市民権を得てきていて、多くの人はたくさんの現代アート作品に触れて、「いい!」と思ってアートの入り口に立つのだろう。
うらやましい。

でも、「わからない」から始まる好奇心もあるのだということを、私はアートに教わった。

「わからない」というネガティブともとれる感情からも、世界とつながり「興味」に変わるときもあるのだ。

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