"アートの時間"ぼくらをカタチづくるものとは?〈ポプラ社×こんな学校あったらいいな〉

あの頃、ぼくらの周りでは"不要不急は控えましょう"そんな言葉で溢れていた。

不要不急とは、必要ではないこと急ぎではないことを表しているそうだ。

ぼくが学校行事で遠足に行くのも、家族で水族館に行くのも、友だちと遊ぶこと、そして水泳の習い事も、ぜんぶ不要不急に分類された。

命を守ること以外は、不要不急。

学びも遊びも、ワクワクすること、新しいものに触れることは、必要ないこととされた。

その時、ぼくは自分をカタチづくっている大切な何かを失いかけている気がした。

待ち焦がれた学校再開の日。少し痩せてしまった担任の先生がこんなことを言い出した。

「アートの時間をつくろう。」

大人目線でたくさん切り捨てられてしまった"必要ではないもの""今すべきことではないこと"。

先生は、それを取り戻すひとつの方法として、アートの時間をつくると言った。

「自分のカラダやアタマ、ココロの中にあるものを、好きな方法で外に取り出してみよう。」

シーンとなった教室を見回し、先生はこう説明した。

自分の好きなものや嫌いなものを何かに描いてみるのもアート。自分の感情や伝えたいことを音楽で表現するのもアート。

"自分とは何かを考え、その答えを自分なりの方法で表現する。"

他人の迷惑にならないことなら何をしてもいい。自由だそうだ。

ただひとつ条件があって、3ヶ月後にクラスの誰かにそれを発表すること。全員の前じゃなくて良い。自分が届けたい、見てほしい、聞いて欲しい、読んで欲しいと思う人に見せること。

そうして、毎日アートの時間が設けられた。

したいことがすぐに見つかりさっそく取り組んでいる人、何をしたらいいのか分からず悩んでいる人、先生を質問攻めにしている人、いろいろだ。

それまで、自粛というガラス張りの籠に入れられていたぼくらは、突然「好きなように飛べ」と外に出されたようで戸惑った。

先生は「悩む時間も自分を知る大切な時間だ。」とぼくらを焦らせることはなかった。

3ヶ月後、様々なタイミング、色々な場所で密やかに発表会が行われた。

海が好きなA君は、青いものだけを写真に収めたsnsを開いていた。海以外にも「青」はたくさんあって、世の中はたくさんの青で溢れていると言っていた。

料理が好きなMちゃんは、好きな香りについて調べていた。香りはすぐに消えてしまうから、色で表現することにしたそうだ。彼女のレシピ集はカラフルな絵具で染まっていた。

学級委員長のHちゃんは、人間関係の相関図をつくっていた。自分が相手とどんな関わりを持っているのか。それこそが自分を表す大きな要素なのだと彼女は言った。

スポーツが得意なUくんは、頭蓋骨を粘土でつくっていた。難しい事はよく分からないけど、先生が自分の中のモノを取り出せと言ったから、骨にした。と言った。

本が好きなIくんは、クラスメイト全員に一冊ずつ読んで欲しい本を選んだ。その本を勧める理由を添えて。本選びはその人を知ることから始めたそうで、とても楽しかったと言っていた。

GくんとDくんは、朝日が登る早朝、森の中でギターの演奏会を開いた。自然の香り、小鳥の声、木々の揺れ、全てがミュージックだった。2人はこれをnature guitar、そう呼んでいた。

物静かなRちゃんは、自宅でサボテンを育てていた。白星という種類で、白い可愛い花が咲き、そして落ちていく様子を早送り動画で撮影していた。タイトルは伊吹だそうだ。

Jちゃんは、晴れた日に水で運動場に大きな絵を描いた。何度も校舎の屋上と行き来し、完成したのは、去年亡くなったお父さんだそうだ。Jちゃんは「見てるー?」空に向かって叫んだ。

Oくんは、鶏をひよこから育てて自分で食べた。自分の身体が何からできているのか、きちんと知っておきたかったそうだ。自分の中にはたくさんの命が生きている、彼はそう言った。

最後に、ぼくのアート。それは、この文章だ。クラスみんなのアートを記録すること。ひとりひとりがこの3ヵ月で何を得るのか見届けたい。それがぼくだ。

ぼくらはこの3ヶ月間、"自分とは?"という問いに向き合った。そして、その答えを人に伝えるための方法を探した。

ひとりひとりのアートは、まさにその人自身だった。

先生は最後にこんなことを言っていた。

"自分の気持ちや考え、価値を人に委ねないこと。自分を知ることの大切さ。そして、自分を表現するのを恐れないこと。"

君をカタチづくるものは、何ですか?


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