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こどもとうみ「あの日の海」

 2011年3月11日金曜日に起きた東日本大震災。保育園では、午睡からそろそろ起こす頃。寝ている子どもがほとんどだった。あまりの揺れの長さに、揺れが収まったら外へというこれまでの訓練のタイミングが図れない。「もう出ていいですか?」「まだ!」そう言いながら、「とにかく揺れが収まったら園庭の真ん中に午睡用の布団を放り出して、その上に0、1歳児たちは集めよう!」などと指示を出しながら、子どもたちに覆いかぶさり、揺れの収まるのを待つ。やっと収まってきたので、一気に「出るよ!」とみんなで園庭へ。全員外に避難してから、今度は大人が順番に建物の中に入り、必要なものをとってくる。一斉に行って大人が全滅しないように、順番に。水道が出るのを確認して、断水になる前にとにかくありとあらゆる物に水を貯める。そして、私たちの園では、園庭にテントを立ててお泊まり保育を行なったりしていたので、屋根裏にテントがある。急いでそれを取りに行き、組み立てその中で0歳児には急いでミルクをあげる。せめて落ち着いて飲めるように。その間も大きな余震が続いていた。

 全員の保護者が歩いてお迎えに来て、最後の子どもを送り出したのが、夜の23時近くだった。それから、退院後だったので車で寄っていた私は、みんなを送り届けることにする。国道を夜中にゾロゾロと大勢の人たちが歩いていた。踏切は停電で閉まっていて、通れない。電車も線路上にそのままに。

 乗せられるだけ乗せたスタッフを送り、自分の家に戻ったのは午前1時過ぎ。それからキャンプ道具一式を持って一人暮らしになっている父の元へ。

 サラシを巻いていた私の術後のお腹は動きすぎて縫ったところから出血していて、サラシには点線のように血がついていた。笑

 父も無事で、とりあえず安堵し、寝袋に入った。。。。

 この後の日本は皆さんも経験の通り。書き出したらキリがないほどの経験。生きている間にこんなことが起きるなんて想像していなかった。

 そして、あの日の海は、、、、見たこともないほど、潮が引いたと写真を後日に見せてもらった。そして、翌日、我が家から見える海には、今まで一度も見たことないほど、海の上には何も浮かんでいない。いつもなら、ヨット、漁船、ウィンドサーフィンなどなどが海に浮かんで行き来をしている。一切何も浮かんでいない海。何かとても異様な感じだった。

 あの大きな津波があった地域を思うと、海が怖くなった。映像で見る何本ものうねりのラインが押し寄せてくる光景は本当に恐ろしかった。同じ沿岸部に住むものとしては、明日は我が身。(いても立ってもいられず、5月から毎週のように東北へ通うことになる、私)

 その後も関東では計画停電と原発の問題があり、東北では甚大な被害が日に日に明らかになる毎日。

 私はあの震災を機にテレビを手放した。あれ以来ラジオだけの生活になった。必要な情報はこちらから見に行けば良いから。

 あっという間に退職の3月31日を迎え、4月の開園と入園式を考えるも、原発事故の影響で入園予定だったほとんどの子どもたちが一旦西へ避難することになったと連絡が入った。その為、入園式は延期にすることにしたが、園は予定通り始めることにした。西へ避難しなかった1名の園児がいてくれたから。

 震災直後の4月。おうちえんTelacoya921は満開の桜の木の下で2歳児1名とスタートした。震災からの復興と同時期にスタートした小さな園は、東北と一緒に歩みを進めているように感じていた。

 from the first step

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