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害虫と脳卒中

 もしかしたら割合で考えると、人数は思っているより少ないのかもしれない。
 しかしながら決して少なくない21世紀人は、虫の生命を終わらせることを躊躇わないであろう。
 私も躊躇わない。
 虫の生命を終わらせることを申し訳ないとは思わない。……ようにしている。

 ……仮に、仮にである。たとえ一瞬罪悪感を覚えるとしても、決して虫に同情することはない。自分の生活の質を保つためなら容赦はしない。

 そう、自分の生活の質こそが、私達が虫を葬る理由なのである。だから生活の質を少しでも損ねるような葬り方を、少なくとも私はしない。
 虫を叩き潰して、虫の体液で住居が汚れるのは、嫌である。掃除をすることを加味しても気分が悪い。

 私はそうやって生きてきた。そして何体もの個体を叩き潰してきた。その思想と戦闘経験が、私に最適攻撃を可能にする。
 私が叩き落した虫は移動を止める。その身体に破損は見られない。しかし微妙に虫の息が残る。

 自分がこの虫の息の状態に陥ったらどうだろう。激痛で身動きできず、誰に助けを求めることもできない、永遠の生き地獄の時間である。
 そのような瞬間というのは、実際に命の危機に瀕しているかは別として、誰でも体験したことがあるであろう。
 苦痛はどこでもいい。頭、目、口、背中、御腹おなか、内臓、腰、股、腕、脚。苦痛から逃れることを許されず、その身体的な痛みだけと向き合う終わりが見えない時間が。
 そうした経験が、私の脳卒中の恐怖の源にある。くも膜下出血を発症したら、そうした苦痛の時間の中でも最も恐ろしいものが待っているのだろうという恐怖が予感される。まず助からない。そして誰にも気づかれず、苦痛とだけ向き合って、この人生と「私」は終わっていくことになるのではないか。

 恐らく、私が仕留め損ねた虫の息の虫は、そういう状態だ。痛覚があるのかは分からないが、しかし生命の危機に対して何の異常事態という機構反応も無い動物もいないであろう。
 しかし私は、その虫の息の虫の視点を一瞬想像するも、やはり自分の生活の質を第一に、大量の拭き紙を使って、虫の生骸いきがらの手触りを感じないように摘まみ上げて、そっと拭き紙を丸める。そして、そういう虫が部屋に現れた時のために取っておいた食品梱包用の小袋に入れて、封をする。
 これで虫は、息を吹き返しても脱出することはできない。この虫と私は空間を異にする。この虫は永遠に孤独である。虫が封じられた小袋を、私が数日後に可燃物として世間に引き渡し、焼却炉で処分してもらうまで、この虫は自己の生命の危機とだけ向き合うのである。

 虫……というより、人間より小さい生命は、同じ一分一秒でも人間より時間を長く感じることが多い。
 私達が大人の時より子供の頃の方が、時間を長く感じていたように、羽を有して飛ぶ虫が、私達人間の攻撃を容易く回避できるだけ時間を細かく識別しているように、小さい動物の方が時間を長
く体験しやすい。蝉の一生も、蝉の知覚においては、人間が儚い一週間と憐れむほど短くはないのであろう。
 虫の息の虫は、私が息の根を止めなかったばかりに、恐らくあまりに長い苦痛を、絶望的な孤独の中で体験して、焼却炉に行く。

 そのことに思い至って、私は仕留め損ねた虫を見つめ、自分が脳卒中で動けなくなり、しかし誰にも助けてもらうこともできず、永遠に苦痛に悶える地獄を想像する。
 そして罪悪感を振り払い、私は虫を触れないように拾い、封印し、自分の生活の質を守って、極楽の部屋に帰っていく。

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