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ささいな物語が読みたい

「その辺を歩いているひとをつかまえて、インタビューしてごらん。記事は誰のどんな言葉ででも書けるよ」

大学生のころ学外活動で出入りしていた新聞社でお世話になった記者さんが、いつも言っていた。専門家や政治家、機会があれば総理大臣にでも会えるけれど、記者の仕事は地位ある人の言葉を伝えることだけではないのだ、と。

「むしろ普通のひとの普通の言葉や出来事に出会えるのが、この仕事の幸せなところなんだ」

「名刺一枚で誰にでも会える」と言われる仕事なのに、そう言って笑う彼が書く記事が、私は好きだった。

記者になりたい。何度もここに書いてきた叶うことのなかった思いが固まったのは、そういえば彼のその言葉を聞いたからだった。ただ新聞社に出入りしていただけでも、ただ取材のようなことをしていただけでも、私はきっと記者になりたいとは思わなかったはずだ。

「『普通のひとの普通の言葉や出来事』を、すくいあげたい」

まだ捨てられない就活ノートの最初の一行に、次のページに跡が残るほどぎゅっと力強く書いてあるのだから。

いま、あの頃夢見ていた仕事にはついていないけれど、読んで書く毎日をこうして過ごしている。正直、当時は想像もしていなかった。それでも、たくさんの話や文章にふれるたび、彼が言っていたことはやっぱり本当だ、と思う。

誰かの経験した出来事や、聞いた言葉に出会えるのは、とても幸せだ。

ちょっと筋トレをしすぎて筋肉痛になったとか、こどもが朝なかなか起きなくて困っている、とか。この間入ったレストランの料理がなかなかおいしかった、とか。日常に転がっているそんなささいな話でも、私は聞きたいし読みたいと思う。だってそれがどんなに小さな出来事だったとしても、読み手の私には「その」経験がないのだ。読んで世界を広げること、誰かの思い出を追体験できることは、いつになっても変わらず楽しい。

「すくいあげる」だなんて力不足でおこがましいけれど、「聞きたい」「読みたい」となら、私にも言える。顔を合わせたことのないひとの「読みたい」に救われる。そっと届く「響きました」に唇を噛む。ここではそんなことが起こるのだ。だから、「読みたい」は誰かの応援になると信じて、ここに書く。

日々のあしもとに転がっている、小さな出来事。とるに足らないこと。こんなこと、書くほどでもないかな、なんて思うこと。

整っていなくてもいい。まとまっていなくたっていい。私は、ここで出会ったあなたのささいな物語が読みたいと思っている。

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