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カモミール畑をつくりたい

自粛生活が続いていた先月上旬のこと。職場は休業になり、私は家での時間を持て余していた。

溜めていたドラマの録画を見たり、ジャムを煮てみたり、果実酒を漬けてみたり。普段なかなかできなかったことを一通り済ませてもなお、時間があった。いつもは「時間が足りない」を言い訳にするのに、いざたっぷりあるとそれはそれで困ってしまう。いつだって隣の芝生は青いのだ。

何をしようかと思いながらぼんやりワイドショーを見ていると、リポーターがマンションのベランダで家庭菜園を始めた親子を紹介していた。トマトには黄色い花がついている。もうすぐ実ができそうだ。

いいなあ。私も何か育てたい。ベランダにこじんまり並ぶプランターが羨ましくなった。実家に庭も畑もある恵まれた環境にいながら、何か植物を育てた記憶は小学校のアサガオとミニトマトだけ。自分で蒔いた種から芽が出たら、きっと嬉しいに違いない。

自転車でホームセンターに行き、カモミールの種を買った。1000粒入りで220円。1000粒も使いきれるだろうかという一抹の不安を感じながら、レジに並ぶ。袋の裏を見ると「発芽率65%」と書いてある。そうか、それなら多めに蒔けばいい。

家に帰ると玄関に鞄だけ投げて、倉庫からプランターを探した。できればカモミールが似合うような、可愛いのがいい。見つけたテラコッタの鉢の底に石をひき、これも倉庫から引っ張り出してきた「くだものとやさいの土」を入れた。種の袋を開けてみると、ボールペンでちょんと紙を突いたような小さな小さな種が底に集まっている。たったこれだけで1000粒。寄り集まる粒が秘めた可能性に、わくわくした。

「65%」を思い出し、少しずつ種を蒔く。親指と人差し指でつまんでさらさらと、薄く、それでいてまんべんなく。ふんわりと土を掛け、じょうろでたっぷり水をやる。袋の裏の説明文によると、7日くらいで芽が出るらしい。自分で蒔いた種はすでに愛しく、かまぼこ板にアイスの棒を画鋲で留めて看板を作った。「大きく育て!カモミール」。絵の具で書いたそれをプランターの隅に、ちょこんと差す。可愛さ倍増だ。

それから数日、私は何も生えていないプランターに水をやり続けた。小学生の頃「昼間に水をやるのはお湯をかけるのと同じ」と聞いたのを思い出して、あたりが薄暗くなり始めた頃を律儀に「水やりの時間」にしていた。

説明文よりもやや早い5日目、土の匂いを感じるほどにプランターに顔を近づけると、小さな芽が覗いていた。じっと近くで見てようやく分かる双葉のかたち。まだ気持ち程度にしか埋まっていない白い根っこ。じょうろの水圧さえも心配になる姿だけれど、可愛いというか愛しいというか、何だかきゅんとしてしまう。ベランダで野菜を作る人たちもこんな気持ちなんだろうなあ、と少し遠くに見えるマンションを見上げた。

しかし、それから怒涛の芽生えラッシュが始まった。想像以上に生えた。数は数えていなかったけれど、65%では絶対になかった。間引きはかわいそうだ、と放っておいたら、倉庫から引っ張りだしたプランターからもさもさと葉があふれ出した。大学生のときに調理の授業で聞いた話をふと思い出す。「ひじきを戻す量を間違えて、翌朝鍋の蓋が浮いていた先輩がいるらしいよ」。まさにそれだ。緑色のひじき。

とうとう私は、カモミールを畑の一角に移し替えることにした。祖母に教えてもらって畑を打ち、一本ずつ植え替える。爪の先が黒くなるほど土を触ったのはいつぶりだろう。最初はスコップで少しずつ植え替えていたけれど、途中から汚れるのなんて気にならなくなって手で土を掘って植え替えた。カモミールはぐったりとしてしまったけれど、畑仕事を長くしてきた祖母は、すぐに元気になるから大丈夫だと言う。いつもより念入りに水をやり、あの看板も隅に立てておいた。

大きく伸びてはいるけれど繊細な葉は、雨でやられていないだろうか。虫に食べられてはいないだろうか。畑に移すと心配事は増えたけれど、長引く雨でしばらく見に行けない日々が続いた。

先日、梅雨の晴れ間に畑の一角を覗いた。どの株もきちんと立っていたけれど、植え替えたときの葉が元気な株はひとつもなかった。周りの葉は枯れたりしおれたりして地面に落ち、真ん中から新たな葉が真っ直ぐに伸びてきている。一度弱るとカモミールはこうやって生えてくるのか。高校生の頃夢中で読んだ『図書館戦争』を思い出す。主人公たちの大切な花として語られるカモミールの花言葉は、「苦難の中の力」だった。

袋の裏に書かれていた「花が咲く時期」は7月。まだ種は半分以上ある。全部蒔いたら、畑の一角はカモミール畑になるに違いない。

一度葉がだめになったぶん、時間はかかるかもしれないけれど。

日常の生活に戻りつつある今もなお、ぐんぐん育つカモミールは私を楽しませてくれている。

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