輪郭は冷たい

何気ない瞬間、書きたいな、と思うものに目が留まる。「これが」書きたい、とエピソードが浮かぶのが一番良いのだけれど、ほとんどの場合は「雰囲気」のままでふわりふわりと落ちてくる。道端の水路をさらさらと流れていくほんの少しの水が輝いていたり、夏の日差しが畑の野菜の影を濃くしていたり、木漏れ日の下を自転車で抜けるときに光が点滅したり。そういうものを見るたびに、「こんな」文章が書きたいな、という気持ちがじんわりと沸きあがる。

色で表すとすれば、それはビー玉の中に閉じ込められた一筋の赤や、ラムネ瓶の青のような。そこまでは分かるのだけれど、それがどうすれば叶うのかはまだよく分からない。どれも透明でくっきりしているという漠然としたイメージがあるだけで、今はただ「どこかにはめる」ことしか分かっていない無地のジグソーパズルのピースを見つけては、空箱に溜めている。

分からないなら、書けるものをひとつでも多く。そんな気持ちで周りを見ると、毎日がちょっぴり忙しい。窓を這うヤモリをおばあちゃんと見つめたときの気持ちを、淡い色だけど夏だなと思った空を、言葉で表すとしたら。そんな風に考えていると、毎日は確かに鮮やかになる。けれど、今まで擦ってぼかして必死で宥めてきた気持ちにまで手が触れて、肝が冷える。

やっぱり、好きなことを仕事にしたい。

奥に奥に押しやって、しばらく光を当てることのなかった気持ち。「仕事」だから。お金をもらうためだから。そうやって何度も塗りこめても、もとの色が浮き出てしまって困る。あたたかい文章が書きたいのに、少し手が触れただけで冷えてゆく心が怖くて物怖じしてしまう。

手が触れるとどうしても冷たくて痛い。ここで「書く」ことは、私の鎮痛剤なのかもしれない。でも、それすらも効かなくなったとき、私はどうすればよいのだろう。

痛いままでも、私は微笑んでいられるだろうか。痛いままでも、書こうという心意気は持てるだろうか。分からないけれど、そうしていたい、という気持ちには一点の曇りもない。

それならば、その痛みさえも書いてしまおう。痛い、冷たい、そんな気持ちまでも書けるようになれば、書ける文章は広がるに違いない。

最後にはふわりと笑うと決めていれば、きっとそれで大丈夫なのだ。

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