幕が上がって

大学の後輩が、気づくと舞台に立つひとになっていた。

バスの待ち時間を潰すためにふらりと立ち寄った本屋で手に取った雑誌に、彼の名前を見つけて息をのんだ。初めて単独主演を務める〇〇、と紹介されたテキストの横で、少し力の抜けたような表情の彼が、こちらを見つめていた。

学部もサークルも違った彼とは、ある教授に頼まれた仕事で知り合った。確か新たに客員教授として迎える方の観光案内をしてほしい、というような依頼で、当初は私がひとりで対応する予定だったのだけれど、「もうひとりいたほうが心強いと思うから」と教授が呼び出したのが彼だったのだ。

仕事当日に初めて会ったとき、彼は不思議な空気を纏っていた。すごく透明感があって凛々しいのに、どこかつかめなくて、それでいて触ると割れてしまうような。一目見て、「あ、ガラスみたいだ」と思った。

一緒に電車に乗って移動する間、初対面なのにどうしてだか私たちは将来の夢の話をした。これから仕事をする、という緊張感からかもしれないし、何かの授業の課題について話していたのかもしれない。倒れてしまいそうなほどに電車が左側に傾いて走るものだから、シートに座ったままでも進行方向右側の窓からは空が広く見えた。

「高校の英語の先生になりたいんです。本当は留学もしたいんですけど、それだけのお金は工面出来ないから、僕はここで出来ることをしようと思って……」

家庭教師のアルバイト、英会話カフェの利用、それからもちろん、その日の仕事のようなすべてのチャンス。何もかもを手掛かりにして夢を叶えたい、と言う彼は眩しかった。「まだうちの学科からは高校の先生は出ていないんですよ」という彼の言葉の隅では、「諦めない」の火がちらちらと燃えていた。

だからあの日雑誌で彼を見つけたとき、あぁ、本当に好きなことに出会えたんだな、と思った。あの頃紛れもなく本物だった「先生になりたい」という気持ち。それを差し置いて、彼は今、舞台に立っている。

見てみたい、と思った。一枚チケットを買って、彼に連絡をした。

久しぶり!雑誌で名前を見かけました。単独初主演、おめでとう。
チケット買いました!

ぽろん、とアラームが鳴ってぴかぴかと青いライトが灯る。

わ、えーー!!ありがとうございます!
楽しんでいただける作品にしますのでご期待ください!!

たった2行の文章だけれど、彼のいきいきとした様子が伝わってくる。チケットを財布に収めて、楽しみに当日を待った。

当日、舞台の上で彼は本当に「いい顔」をしていた。「先生になりたい」と語っていたときとはまた違う、「出会っちゃったんだ」みたいな顔。ガラスみたいな脆さはもうどこにもなくて、すごく堂々としていて、ああもう、好きなことに出会えてよかったね、とこちらの胸まで熱くなった。

けれど、先生から俳優へと行き先を変えるのは決して楽ではなかったのだろうな、とも思う。安定した方を、安心できる方を。「好き」で仕事を追いかけようとすると、そう言われることはきっとある。だから私は、あんなに「いい顔」をした彼の背中を押したかった。

終演後、差し出がましいかな、と思いながらも連絡を入れた。

「先生になりたい」って前は教えてくれたけど、もっと熱中したいことに出会えたんだね!
もともとやりたかったことを上回ることに出会えるなんて、すごく素敵。応援しています。

彼はいつも丁寧な返事をくれるけれど、私に本当にその背中が押せているかは分からない。でも、応援している人がここにいるよ、と伝わっているといいなと思う。

その日以来、彼は新しい舞台に立つたびに連絡をくれる。

今度、舞台に出ます。もしよかったら見に来てください。

「一枚お願いします」と返信しながら、差し入れは何にしようかと考える。彼とはたった一日、教授に引き合わされて仕事をして、ほんの少し夢について話をしただけだ。そういえば、何の食べ物が好きかも知らないな、と苦笑いする。振り返ってみればそれくらいの関係だ。それでも、私は彼が追いかける「好き」を応援したい。

この間、久しぶりにぽつりと通知が灯った。

今度、舞台に出ます。

これまでの度重なる舞台の延期や中止は、きっと悔しかっただろうと思う。それでも、また少しずつ、あの「いい顔」が見られるようになりそうだ。

いつも通り「一枚お願いします」と返信する。たった一枚、それでも、これが彼への応援になると信じて。

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