【特別公開】『霞と息』巻頭言―キカン誌創刊によせて―#文学フリマ東京38
本稿は、本キカン誌を創刊するにあたり、寄稿者を募る際執筆した企画書の一部を改稿したものである。ここで創刊の経緯から、コンセプト、今後の展望までを簡単ではあるが綴らせてもらいたい。
〇、なぜキカン誌を創刊するのか
まずは、なぜキカン誌を創刊するのか、という起点から述べたい。
キカン誌を出版したいと明確に考え始めたのは、二〇二三年の文学フリマ東京36が終わってすぐであったと思う。振り返りのNoteの記事を書きながら、今後の活動の方針を考えた時に、一人でずっとやっていくことに一抹の不安を覚えた。
自分は全部一人で完結する作業が好きだ。おそらくその原初の経験としては、学校の体育があるのかもしれない。運動がからきし駄目な私からするとチームプレイのサッカーや野球よりも、個人プレイの陸上、水泳、テニスの方が割に合っていた。自分のせいでチームが負けたと自責の念に駆られなくて済むからだ。
鶏が先か、卵が先か、因果関係はわからないが、とにかく小学生ぐらいの頃からすでに一人で何かを進めることが好きになっていたし、今に至るまでそれが当たり前になっていた。
ただ、殊に創作関係において、たった一人で執筆・編集・発注・販売までを担うのがいかに大変か、二回の文フリ出店で痛感した。どんなに〝文学〟が独りであっても、〝文学活動〟は独りである必要はないのではないか、そう感じ始めたのである。「同人誌」という言葉の通り、同人を見つけて、一緒に活動していくのも魅力的な方法だろうと思ったのが、今回の発刊の動機の一つだ。
もう一つの理由は、創作する場のきっかけづくりである。これは、自分自身はもちろんのこと、他者に対してもそういった場になれたら良いと思っている。
自分は締切が無いといつまでも作業に取り掛かれない人間である。その上、締切のギリギリまで粘ってしまうタイプなので、今まで何度も危ない橋を渡ってきた(文フリの入稿に始まり、卒論、修論の提出など。ちなみこれらの経験から自分の好きな八字熟語を「締切当日消印有効」としている)。
今後も継続的に創作活動をしていこうと思う以上、明確な締切を設けないといつまで経っても書き上げられない危険性がある。そもそもそれを職業としている作家・ライター・イラストレーター等でない限り、創作活動は同人活動であり、生活に絶対必要不可欠な行為ではない(それなのにそんな創作活動に駆られてしまう我々)。最悪いつまでも無限に先送りしてしまうこともできるのである。そこで、強制的に書かなければならない状況を作るのに、定期的な発行物があると公言する必要がある。
これはあくまで私の執筆環境に即した話であったが、同じように締切がないと書けないタイプの人のための場として活用してもらいたいとも考えた。文章を書くだけでなく、わざわざ文フリで販売するとなれば、顧客=読者のことも想定しなければならない。もし独りよがりの自慰行為を人様に売るならば、とんだ羞恥プレイである。
文フリに来るような顧客は何を求めているのかを考えた時に、昔は文章を書いていたけど最近は読む専だとか、あるいは、なんとなく創作活動に興味はあるけれど、中々一歩を踏み出せないといった人も多いのではないかと思った。そうした人たちの「きっかけ」の場にもしたい。始めるための、そして続けるための場所、それが今回目指すキカン誌の姿である。
一、「キカン」誌とは
お気づきのことと思うが、本稿ではここまでキカン誌という呼称を使ってきた。決して私が「キカン」の漢字がわからない阿呆というわけではない。この表記の意図について次に述べたいと思う。
私が定期的な発行物を創刊したい、と思った時、最初に脳内に浮かんだのは「機関誌」だった。だが、よくよく考えてみると、「キカン」という言葉には「季刊」もあれば、「基幹」もある。はたしてどれがふさわしいのかと思案したが、そもそも一意に定める必要があるのかという疑問が湧いて出た。むしろそうした複数の意味を響かせるために敢えて「キカン」の表記に留めるべきなのではないかと考えたのである。
例えば、「機関」と取れば、一般的な機関誌の意味になる(共産党の「赤旗」、創価学会の「聖教新聞」など、偏った印象が皆さんにはあるかもしれないが)。機関誌を発行している「組織」としてきちんと運営していることのアピールになり、寄稿者も安心して投稿できる場の整備につながればと思っている。また、サークルとしての活動(読書会、合評会、その他イベント)が盛んになれば、その報告・広報としての役割も果たしてくれるようになるだろう。サークルの看板としての「機関誌」である。
はたまた「基幹」とすれば、我々が創作していく上での基盤を成す存在としての意味が出てくる。「基幹」誌への寄稿を呼びかけることで定期的な活動を促進し、その一方で各人が単著を書いたり、その他の活動に従事したりしていってほしいと思う。また後述の「生きていく上での基幹」的な存在たる創作活動とも位置づけられる。サークルとしても、創作人としても根幹を成す存在なのが、この「基幹」誌なのである。
さらに「季刊」とすれば、発行ペースの指針ともなる。理想を言えば、季刊年四回の発行がベストだと考えている。「日本には四季がある」という言葉がある種のネタ的に扱われるようになって久しいが、大学時代中古文学を専攻していた自分からすると、やはり四季の感覚というものは忘れたくないものである。ただ、実際に走り出してみないことには、どのくらいの調子で季刊誌を出し続けられるかわからない。現に今この原稿も新生活の多忙さに追われ、締切間際に執筆している有り様である。ひとまずは、春秋年二回ぐらいを目標にしようと思っているが、ゆくゆくは季刊とするつもりである。
他にも、「器官(気管)」とすれば、息をして生きていく上で必須の存在としての文学の姿となるし、「亀鑑」とすれば、判断の基準・行動の指針たる、いわば果てしない創作活動の一里塚としての役割が見えてくるだろう。
調べてみると、何人かで作り上げるテーマ性のある冊子のことをアンソロジーと言ったり、同人の雑誌のことをZINEだとか、リトルプレスだとか言ったり、色々な呼び方があるようだ。しかし、今確認してきたように日本語の「キカン」が持つ多義性に遊びたく、本サークルではキカン誌と呼称するのである。
二、コンセプトその一 「霞」––不明瞭な行為––
先に本キカン誌のコンセプトを「始めるための、そして続けるための場所」と説明したが、一方で題号にはそれとはまた違った思いを込めている。今度は題号から「キカン」誌の裏コンセプトについて、説明したいと思う(裏という表記をしたのは、先のコンセプトが対外的なものであったのに対して、これから話すコンセプトはわたくしが個人的に抱いている思想だからである)。
「霞(かすみ)」は、辞書の定義を見てみると「空気中に広がった微細な水滴やちりが原因で、空や遠景がぼんやりする現象」(『日本国語大辞典』)と書いてある。ただ、そもそも「霞」の一字でその意味を表すのは日本独自の用法であり、漢字そのものの字義は「朝焼け・夕焼け」「なまめかしい・美しい」「はるか・遠い」(『新選漢和辞典』『字通』)などである。
「朝焼け・夕焼け」は、昼と夜の境目で、古来より特別な意味合いがあった。『君の名は。』の「かわたれどき(彼は誰時)」などが有名だが、昼と夜のどちらでもなくてどちらでもある曖昧な状況は、日本語の曖昧性とも通じるものがあるように思う。さらに少し発想を飛ばしてみると、この関係性は数学における積集合(A∩B)とも類似しているのではないだろうか。サカナクションの山口一郎氏はこの積集合の関係を「気空域」とか「良い違和感」とかそういった言葉で表していたが、私が目指したい文章表現の極致がまさしくそこにある。具体的に言えば、韻文と散文、小説と映画、あるいは小説と音楽など、様々なジャンル、思想と重なり合う作品づくりである。
先に例に挙げた『君の名は。』をはじめとする新海誠監督作品は、「文学的」だとか「映像文学」とかの言葉で評されたり、サカナクションの楽曲も同様に「文学的な歌詞」などと紹介されたりすることがある。であるならば、逆に「映画的文学」「音楽的文学」も当然あるはずで、複数のメディアが複層的にそして曖昧に重なり合う姿が〝霞的文学〟なのである。
次に「なまめかしい・美しい」という定義だが、美しいものというのは、本来形のないものだと思っている。世に存在する「美しいもの」は、何か具体的な形(人だったり花だったり絵だったり)を持っているけれど、それはあくまでたまたまその姿で発現したに過ぎない。不勉強で詳しくはわからないが、イデア論がこれに近いだろうか。とにかく、その目に見えない「美しさ」を追い求めることが、私の創作活動の一つのモチベーションとなっている。換言すれば、それは抽象概念としての「華」である。だからこそ、自分のペンネームを形のない「華」「かおり」を含む「華織」としたのだ。
それらの理想は遥かに遠いものである。そうして遥かに大きいものである。例えるならば、旅人が長い道程をゆく時に、ふと見上げた先にそびえる高い山々のようである。遠い目標であるが、決してたどり着けないわけではない。朝焼けの中、遥か遠くに見える美しい山々、霞のように実体のない不明瞭なもの、まさしく私の思い描く理想を表しているのだ。
三、コンセプトその二 「息」––日常的な行為––
次に「息」という語である。「息」とは「生き」、すなわち生命活動に直結する行為である(『世界大百科事典』の「息」の項に「日本では息(いき)は〈生き〉と同根の語とされ,神(イザナギノミコト)の呼気が風神の生命を誕生せしめたなどの例はそのことを証している。」とある)。息を吸わねば生きていけないし、故に「息」とは普段(不断)の行為である。
創作行為とは、かように息を吸うように日常的な行為で、と同時に息を吸うように不可欠な行為ではないかと思う。いや、むしろ生きていくために必要な活動こそが創作行為そのものなのではないか。そんな気すらしている。
先に継続するための場所として「キカン」誌を位置づけたが、では、「なぜ創作活動を続けたいのか」と問われると、返答に窮してしまう。
別段有名になりたいわけでも、百万部を売り上げたいわけでもない。それにネットで活動したり文フリなんかに参加したりすると、自分には才能がまるでないことをはっきりと突きつけられるし、書き続けることはむしろ苦行に近いとも言える。
締切に追われる感覚は最悪なもので、もう二度と味わいなくないと思いつつ、結局締切に追われ、なんとか書き上げたいと必死になる。あるいは、一般の人からすると休みを返上してまで執筆にのめり込み、しかも自費で本を出版する行為は、ある意味で異常とも言えるのかもしれない。
だからこそ、創作行為とは生きることなのだと思う。どんな苦しくても、どんなに辛くても、生き続けるために、自分が自分であるために、書き続けなれけばならない。そこに上手いも下手もなく、才能も凡才もなく、若いも老いもなく、ただ、今この瞬間に息を吸うがごとく、筆を執る。息を吸わねばますます苦しいのだから、筆を執らざるをえない。
創作活動とは誰しもに潜在的にそして根元的に備わっているものだと、信じている。そこで、私はもっと色々な人に創作活動に触れてみてほしいと思っている。確かに文フリの出店者は年々増加傾向にあるが、それでも「文章を書く」行為はまだまだ一部の人の「趣味」に近い位置に甘んじているように思う。
自己紹介で「文章を書いてイベントで売っています」と言うと、たいていの人は「すご〜い」とか「自分にはできない」とか返ってくるのだが、いや待ってほしい。ここで「創作」という区切りをせずに考えてみると、日常を過ごす中で、文章を全く書かない職業というのも少数派な気がするし、小中高の国語の授業で記述問題や小論文で散々文章には触れているだろう。授業内で短歌や短い小説を作らされたりした経験を持つ人も多いと思う。また、あるいは大学時代にサークルや学部学科で文章を書く経験をふんだんに積んだにもかかわらず、今はそこから遠ざかっている人も多いだろう。
「きっかけ」「継続」の場とは、今まで全く創作・文章発表の経験がない人に、それをもっと気軽にもっと身近に感じてもらう場と、かつての経験があるけれど最近はめったにやらなくなってしまった人にもう一度取り組んでもらう場の、二種類がある。
書くことは息を吸うことであり、表現することは生きることである。それをもっと多くの人に感じてほしい。酸素を吸って息をしなければ生きていけないように、我々は文学に囲まれ、文学に生かされているのだ。人が生きていく上での生命線たる「文学」を考えていく。そのための「基幹」としての「キカン」誌の姿である。
四、どういうキカン誌にするのか
以上、キカン誌創刊に至った経緯から、その表記、そして題号に基づいたコンセプトについてまとめてきた。最後に具体的にどのようなキカン誌にするのか、今号の展望を含めて綴りたい。
まず、掲載する文章は、ジャンルに拘らずに様々な文章を載せていきたいと思っている。自分自身は小説と短歌が主な専門領域だが、そうすると偏ったジャンルの文章ばかりを目にしてしまうのでよろしくない。文フリのジャンル一覧を見ては毎度驚いているのだが、あの沢山のジャンルが全て載った冊子があったらさぞ面白いだろうなと思っている。だから、小説の長短はもちろんのこと、散文韻文の別、さらには文学的文章と論理的文章の別も問わない。なんなら、文章に留まらずイラストや写真、漫画といったものでも良い。とにかく表現することの愉しみを一人でも多くの人に知ってほしい。ごちゃごちゃのちゃんこ鍋誌が目指したい一つの形である。
具体的な作品の形態で言えば以下のようなものを取り扱いたいと思っている。
・短編小説(純文学・ミステリー・ファンタジーその他)
・長編小説(長さによっては連載小説の形を取るかもしれないが)
・詩、短歌、俳句、川柳などの韻文作品
・研究論文、評論、批評
・ルポ、ドキュメンタリー、エッセイ、コラム
・イラスト、写真、漫画…………
一言で言えば、文学フリマのカテゴリーに記されているものは全て対象となりうる。
ここでふと思うのが、そもそもジャンルを分けようとすること自体が間違っているのかもしれない、ということである。
自分の専門に近づけて言うならば、古典文学において、「日記文学」だとか「歌物語」だとかの境界が非常に曖昧である点に似ている。例えば、『和泉式部日記』は日記か歌物語か、『伊勢物語』は物語か日記か、はたまた歌集かといった色々な事例があるのだが、蓋し文学におけるジャンルはあくまでも読む側(殊に研究的な場においての)の都合であり、書く側が下手に気にするものではないのだろう。
故に、紙面上で表現できるものであるなら、何でもかんでも掲載していこうと思う。このような試みは私自身も初めてであるから、参加者の皆様にもぜひ実験的な試み・作品に挑戦していただきたい。
かくて、久遠の理想への道のりは開かれた。遠き霞の向こうへいざ往かん。不断の書く行為こそが生きること、生命そのものなのだ。