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災害とともに。

元日の地震から今日で、22日を経過している。被災された方々や、救助にあたってる方々にも疲労がでてくるころ。
13年前の私は、どうだったろうと考え少しだけ参考になるかもと見返してみた。PTSDが年々ひどくなっているので、なかなか発信もできていなかったけど避難所でのヘルパーのやれることや避難した人のところへの訪問にどんな気をつけなきゃいけないことがあるかなど…。
昨日の片付けで、当社の災害対応マニュアルなんてでてきたから…余計に思うのだろう。

そろそろ、物資も届いておるころだけど避難生活が長くなるにつれて被災した方々の疲労も強くなるし不衛生さが増してくる。
トイレで水を流せない。
トイレ周りが汚い。
なので、自然と体育館での生活の中で感染症が増えやすい。
まして、コロナなんて新しいウィルス🦠が発生した後。
アルコールスプレーでの消毒では、手が荒れ余計感染症のリスクが高い。

その避難所には、要介護者もいる。
私は、体育館の個室を利用してレンタルのベットを搬入し1日2回ヘルパーがおむつ交換に訪問していた。
食事は、お粥を温めて息子さんが食事介助していた。
あれは、あの体育館の会議室だったからエアコンも備え付けてあったけどそれだけでは暖は取れなかった。

同じ頃、沿岸部の利用者宅に訪問も始まっていた。
津波を免れた親戚の家に避難し、そこでの介護。
一部屋間借りしたところに、レンタルのベットと酸素。
沿岸部は、大きな船や🚢小さな船が道路に乗り上げておりその合間を走り抜けて訪問していたことを思い出した。
松川浦には、旅館のバスがすっぽり入っておりなかなか引き上げられなかった。
そんな光景を生々しく思い出す。

たとえ避難所でも、避難先でもそこでの算定は可能だった。
時間変更も結構融通がきいていた。

吐き気がしてきたので、今日はここまで…。
次は災害マニュアルと共に、ヘルパーがやってきたこと。
当時の計画書等、どうしてきたかまとめてみようかな?

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