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子どもたちに伝えたい「政府のかたち」の話

常々子どもたちと一緒に考えたいと思っていることを忘れないうちに書いておこうと思う。

私たちは学生の時に、歴史や政治・経済と称される授業を受けているにも関わらず、全くもって「政府のかたち」ってものを考えることがない。「政府のかたち」はそのまま「社会のかたち」になるといっても過言じゃない。なのに、「どういう社会がいいか?」という話の中で「どういう政府がいいか?」という話題はないがしろになっている部分がある。

もちろん「どういう社会が良い」という理想があって、「どういう政府が必要」と続いていくわけなんだけど、その辺りを簡単に説明できる大人が少なく、避けているようにすら思う。

それで先日友人に説明しながら、久しぶりにその「説明」の話をしたので、忘れないうちにここにも書くことにした。これは公民で出てくる話らしいが、割と優等生だった私ですら、正直聞いた記憶はない。笑

まず政府は「大きい政府」と「小さい政府」に分かれる。大きい政府は権力が大きくて、お金がある。働いている人が多いということもあるだろうが、これは必ずしも該当しない。とにかく影響力の大きい政府のとこだ。
小さい政府は、これの全く逆。最低限の権力とお金しかないので、あまり影響力がない。

大きい政府は、社会主義や共産主義のような平等社会を求める国に存在する。小さい政府は資本主義のような自由経済を求める国にある。
ここまで聞いてどうです?ああ、そんなこともやったかな、という感じ?

私が思う理想の政府は「大きくて善人しかいない政府」。えーそんなん当たり前じゃんって思います?それとも意味わかんない?

大きな政府にはリスクがある。権力もお金もあるから、悪い人が多いと、私腹を肥やすことや自分の欲求を満たすことが優先され、政府にいる人たちとその他の国民はちっとも平等にならないどころか、最低限の保証もしてもらえないかもしれない。

じゃあ小さな政府は?政府にコントロールされることないから自由に稼げるし、自由に生きられる?残念ながら、自由に生きて稼ぐ能力が元から備わっていない国民は、それで貧困に陥っても、政府に救ってあげるお金も権力もないので、ひたすら放置されるしかないというリスクがある。

それでも大きい政府にしてしまったら、取り返しがつかないから、とりあえず小さい政府で行こう!というのが独裁者を排出してしまった社会がとる始めの政策であったりする。
これは性悪説に則った典型的に「信頼のない社会」であると思う。人は元来、悪者であり、悪に流されやすいので、権力を持てば必ず私欲に走る、ということを前提とした判断だ。

これが性善説に則った「信頼のある社会」だったら、どうだろう?人は人の為に必ず善い行いをするものだから、より強い権力を持てば、広く人々を救えるので、そこにお金を集めてみんなで良くなろう、という前提であれば、みんな「大きい政府」一択、となるのはず。

実際多くの人は無意識に「大きな政府」を求めている。機能が十分すぎるほどに備わった公共施設が好きだし、国の構成員を増やしている子育て世帯は優遇されたいし、障がい者や社会的マイノリティは平等の権利を得るための投資を必要としている。今の日本国民が、政府がやるべきことだと思っていることが存分に果たされるには、必ず「大きな政府」が必要だ。

こう考えてみると結局、機能としての「大きい」「小さい」を考えてもどちらが正解ということはない。どちらにもメリットとデメリットが同じようにある。しかしそのメリット・デメリットに大きく関わっているのはその政府を動かすのは善人か悪人か、だということに気づくはず。

悪人の集団だったら、小さい政府にしておけば、ある程度はリスクが回避できるし、善人の集団なら、大きい政府にしてみんなが救われる社会にできる。でも善人のふりをしている悪人だったら?悪人は大抵、善人のふりをするものだと国民が信用しなかったら?

こういう問題について永遠と考えるのが思想家である。それにある一定の答を見出した結果が、〇〇主義と呼ばれるものであり、今となっては私たちが一夜漬けで覚えるだけの単語になっている。

子どもたちも一度はこのプロセスを経るべきで、〇〇主義なんて軽々しく教えるもんじゃないなぁと思う。それが歴史の勉強であり、政治の勉強であり、国に属する人間が知っておくべきスタンダードになれば、私たちの社会はもっと変わることができるはず。

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