見出し画像

体たらくの人が書いている

体たらくな人間が、体たらくさを認められたらこれ以上最強なことはない。

「体たらく」とは、「為体」とも書く。字のごとく、もともとは良くも悪くも人のありさまやようすを意味する言葉だったが、現在は”人の好ましくない”ありさまを指す言葉として使われているようだ。なるほど。

私は為体だ。自分のことを落ちぶれていると、情けないと思っている。常日頃から駄目な人間という前提で生きている。何をやっても続かないし、ただ生きているだけで疲れる。誰かの一挙手一投足にすぐ反応してしまうし、かと言ってひとりで生きていくこともできない。とは言え、誰かに助けてと素直に言うこともできないし、助けてもらったらなんか申し訳ない気持ちになってしまう。都合の悪いことは、なかったことにしたくなる。

こんな性格が仇となり、これまでの人生たくさん失敗してきた。失敗するのはいいことだ、若いうちにたくさん失敗しろって大人はよく言うけど、失敗があったから今があるなと思えるところまでは到達していない。今のところ、失敗を引きずってずっと後ろ向きのまま生きている。

こんな体たらくな自分を認められていないところが、体たらくの最たる理由だ。もっと自分を認めればいい、許してあげればいい。誰かに許してもらう必要はないのだ。失敗してきた自分が、最大限がんばった自分だと思えれば、ただそれでいい。
だけど無理なのだ。体たらくなもんで。


毎日noteを続けられなかった自分を責めているんです。たった6日で終わってしまった。しかも書かない日の方が穏やかに過ごせていた。それに悲しくなってしまったんです。

もうちょっと、文章を書いて楽しめると思っていた。書くことが生きがいだと思いたかった。おもしろいなって思いたかった。結構つらいんだ、書くことって。なんでもそうか。体たらくにとっては、生きてるってだけでつらいもんな。

とは言え、こんなことを気にしても仕方ないこともわかっている。体たらくを都合のいい言い訳にしてることもわかる。こんなどうでもいいこと書いて、読んでもらって申し訳ないなとも思う。ここまで書いて、結局書いたことで少しは体たらくを認められて、元気が出てきた。

書くって何なんだ。自分自身を発掘するもの、気持ちを理解するもの、頭を整理するもの、誰かに表明した気持ちになって覚悟が決められるもの、いろいろあると思う。本来は違うのかもしれない。有意義な情報を誰かに伝えるもの、かもしれない。

書くのは不思議な作業だ。一周回っておもしろい。書けなくても、おもしろいと思えることもあるんだな。

わたしは、こんな風に駄文を書き続けて生きていくしかないのかもしれない。そう思ったら、毎日書けなくてもいいのかなと思えた。


phaさんが好きだ。崇拝している。


〈最近のできごと〉

・扇風機を出した

・学校の登校日が増えた。いよいよ6月から再開してしまうのかもしれない。つらい。

・友人に不登校の経験談を聴いた。とてもとても参考になって元気が出た。息子が選んだ道を与えてあげられなくても、いい。与えてあげられない親であっても、いい。

・担任から電話があり、給食はしばらく再開しないことに決まった。良し。

・昨日は登校日で一緒に学校に行った。行くだけなのに、とてもとても気分が悪くなった。朝からずっと頭が痛くて、息が苦しかった。昼間も夕方も夜もずっと引きずって、夜もよく眠れなかった。仕方ないので、夜中の1時に起きて筋トレをした。有意義だった。

・買い物が嫌いだ。私だって買い物になんか行きたくない。買い溜めなんかしたくない。だけど行かなければいずれ何もなくなる。どうしたらいいもんか。そう思っていて、今日久しぶりに夕方、いつも混んでいるスーパーに行ってみたらとても空いていた。世間の状況によって、混み合う時間帯は変わるんだな。夕方に行くのがいいのかもしれない。

・息子がペーパークラフトにはまっている。カラーコピー代とケント紙代が馬鹿にならない金額になりビビっている。

・news picksというサイトの有料会員になった。安宅和人さんの開疎化の話がおもしろくてワクワクしている。密は嫌いだけど、都会の情報が集まっている感じが好きなわたしとしては理想的だ。奈良・洞川などに住みながら今と同じような生活ができたらいいなと思っていたから、これはもしやコロナのおかげで理想的な生活に近づく可能性があるなと楽しくなった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?