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戸棚の中は過去の産物

今日から珍しく連休!

明日の息子の卒業式はコロナ影響で、保護者参列禁止になった。

わが子の大学の卒業式なんて、そうあるものでは無いから、見に行くつもり満々で休みを取っていたのが見れなくてがっかりだけど、連休なのは嬉しい。

日曜が休みなのもここ一年、滅多に無いのだけど。

山積みだった洗濯物を畳み、気になっていた、文房具が溢れていた引き出しの中を片付ける。

そうしたら、もっと片付けたくなって…

ずっと見ないふりをした扉を開けてしまった。

見ないふりをしていたのは…

何が出てくるか分からない押し入れのお化けみたいなもので。

何をしまい込んだのか、見るのが怖かったというか。

しまい込んでいたのはほとんど紙類だ。

仕分けされたファイルを開く。

昔やっていたブログのコピーの一部が出てきた。

懐かしい!

何人か、ネット上で仲良くしていた人のも幾つかコピーしていた。

読みふけっていると、どんどん時間が経つ。

本名もどこに住んでいるのかも知らない人たち。

しかも、2009年とかの日付を見ると、10年ちょっと前だ。

ネット上だけど、楽しかったな。

ここのnoteみたいに、皆たくさん書いて、皆文章が上手くて、コメントも長文で活発だった。

表立って言えないコメントや、私の日記を読んで誰かに話したくなった自身の思い出話を、メッセージで長々と書いてくれた人達が何人もいたり。

何人かは、直接会ってみた人もいるけれど、もう普通は会うことも無い人達。

当時会えなくて、もう会う方法も分からない人達の文章を戸棚に残していても、万が一私に何があった時に子供達が困るだろうと…

記憶の中にとどめる事にして、ほとんどをゴミ袋に詰めた。

(男友達が多かったから、残しておいたら「マディソン郡の橋」のように、あらぬ妄想の元かもしれないと思ってしまった)

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他にも色々出てくる。

まずは家計簿。

息子が高校、娘が中学からの7年間。

家計簿もめくってみる。

頭を悩ませた日々を思い浮かべる。

この家計簿のお陰で、我が子を卒業までこぎつけることが出来た。

私はいつでも、この家計簿のお陰で即座に生活費の内訳が言え、何度か手書きでバランスシートを作って銀行と交渉もした。

私が社会人になった時の最初の仕事は、銀行のローン審査の仕事だったのだ。

今の様にコンピューターではじき出すのと違い、手計算の時代。

その仕事が、我が家を運営していくのに役立つ様になるとは、若かった頃の私は想像していなかったけれど。

仕事は何でもしてみるものだ。

ざっと計算すると…高校から陸上を始めた息子が大学卒業までにかけた費用は、およそ2千万円近くの計算になりそう。

地方の我が家の近所だと、マンションが買えそうな金額だ。

大学3年、4年の頃は、今週は九州、来週は北海道、翌月は東京に何泊も〜

というスケジュールもあったりで。

だいたい、月に2〜3回は県外遠征。

その度に、交通費、宿泊費、シューズ代、治療費、食事代、小遣い、遠征続きで住んでいなくても払う寮費、さらに全国大会だと応援も行ったりで…

去年は毎月20〜30万、多い月には、40〜50万、学費とは別に費用がかかった。

さらにプラスで学費を払う月が近づくと、胃が痛くなる。

関東の選手の家庭は口々に、

「信じられない」という。

同じクラスの大会に出場する箱根出場選手には、スポンサーがついているのだとか。

スポンサーが費用を出さないなら出場も断ったりするそうなのだ。

ともかく、我が子は地方の選手だけど、箱根駅伝に出ないだけで、それ以外は箱根選手と同様に全国の駅伝や大会に出るチャンスがあった。

だけどスポンサーはいなかったし、シューズ代の援助も、援助してくれる祖父母や親戚などもいなかったし、ボーナスもあまり無い、普通の家庭だ。

本当によくやったと思う。

もちろん、銀行頼みでまだこれから返すものもある。

良かったのは、スポーツがこんなにお金がかかる世界だなんて知らなかった事だ。

知らなかったから出来た。

知っていたら、最初から無理だと思って選択しなかっただろう。

知らなかったばかりに、同じ陸上仲間に

「何とかなるよ。何とかするのよ」

と励まされて、実際何とかしてきた。

頑張れたのは、親子で夢を見られたから。

テレビや雑誌の中の世界が、いつも隣り合わせだった。

春からは、夢が現実になり、お給料をもらって走る事になっている。

スタートラインに立つまでに、どれだけ払ったかと思うけれど。

この7年間は、大きくお金を大きく回すために、大きく動いてきた。

普段の我が家の衣食住は質素だ。

外食もほぼしない。

それでも私の文化費は、他の費用より若干高めだ。

同じ様に家族全員に、小遣いは減らさずきちんと渡してきた。

何人かの友人は、趣味にお金を使うなと忠告してくれたけれど、私はそうしなかった。

そうしなかったのは、極端に思われるかもしれないけれど、うつ病になるのが怖かったからだ。

私の母は長年うつ病で、私自身も高3の頃うつ病にかかっている。

私の心は、全てを切り詰めて沢山のプレッシャーに耐えられる程、強くは無い。

大きくお金を動かそうと思ったら、それだけ沢山働いて、体も心も負担がかかる。

残念ながら、働きたい時に就職氷河期だった私は、一度職を失うと、以降なかなかまともな職につけず、仕事に関しては苦労続き。

仕事への原動力を作れるほどに、好きなことにも動かないと、私自身はやっていけないと思った。

音楽は私を元気にしてくれる。

子供が巣立つこれからは、だんだん暮らしを小さくしていくかもしれない。

小さいというのは、悪いことではなくて、身軽でもあるとも言える。

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他にも色々出てくる。

手帳に貼った娘の工作。

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これは、小学3年のころ娘の絵かな?

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こちらは、息子だろう。

「〇〇はむきむき」💪

と、妹の事をカルタにしてからかっている。

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これは、包装紙を貼り合わせて裏に描いてある。

どうやら、実家に娘を預けた時に、私の母と娘が合作で描いた落書きの様だ。

「ママが持っていたの!

探したんだよ。ちょうだい!」

テーブルの上によけておいたら、バイトから帰った娘が見つけて言う。

ピアノを習っていた娘の、初めての発表会の楽譜も出てきた。

私がたどたどしく弾き、

「覚えてる?」

と声をかけると

「下手過ぎて分かんない」

と言われた。

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几帳面な、交際ノートも出てくる。

もらったもの、差し上げたもの。

年数は途中で止まっている。


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これは娘のピアノの先生との交換ノート。

ぎっしり書いてある。

ノートは娘が5才から中1までの間に7冊。

そのまま、私から見た娘の成長記録だ。

これはそのまま、大人になってきた娘も読める本棚に移動させて取っておくことにした。

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新聞の切り抜きは、私の思春期のほとんどをお世話になった病院の先生の記事だ。

子供から娘時代の私は、原因不明の側湾症という病気で手術一歩手前。

手術となると、背骨全部を動かすから、まずは起きて歩く練習からとなり、一年学校に行けない。

それが嫌だった私は、治療を選んだ。

プラスチックのコルセットで身を固めて育った娘時代。

痛くて、恥ずかしくて、自分に自信がなくて、戻りたく無い子供時代。

でも、病院の先生はハンサムでお茶目で好きだった。

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自分で作ったことも忘れていた…子供時代、おじいちゃん代わりにしていた書家の先生のお手本と雑誌の切り抜き。

10才から25才は、毎週土曜日の午後から夜近くまで、先生の家で過ごした。

書かなくても、大人の先生達に教える、自分の先生を見ていた。

25才の時、稽古場は閉じられ、28才の時、先生は亡くなった。

娘がお腹の中にいた時。

以降は、気持ちがついていかなくて、筆を持つのを、とうとうやめた。

やめることで、私の中に教えてもらった事を残した。

他の先生につくと、私の心の中の教えが壊れてしまう。

要するに、書道より先生が好きだったのかもしれない。

晩年、元々は音楽の先生だったと、先生の奥様から教えてもらった。

だからだ。

先生の書は、「紙の上の音楽」だと思っていた。

今の私は、筆の代わりにチェロの弓を持ち、筆を持っていた頃より悪戦苦闘している。

お通夜の日には、千部作ったという冊子があっという間に無くなったというのが聞こえた。

そんな先生の側で育ったのは、私の貴重な財産。

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さらに、台所の小さな本棚の整理。

我が家には四ヶ所本棚を設けている。

無くしたと思っていたご朱印帳が、本棚の隙間から出てきた。

あれ?何度も調べた場所なのに…しょっちゅう触る場所なのにおかしいな。

でも、2年ぶりくらいに出てきて嬉しい。

ご利益があるかな。

良い事があれば良いなと思う。

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夜の9時半、今日も大学に行っていた息子が明日の卒業式の為のスーツを取りに帰ってくる。

スーツを持って、今夜はお別れのオールナイトだ。

「えー、じゃあ、明日帰ってきたら卒業記念に写真撮らせてね。

ほら、大学の卒業写真撮るじゃん、こんな帽子かぶって」

頭に手をやり、ひし型の帽子を乗せる手つきをすると息子が笑って

「早稲田大とかだろ?

僕、明日帰る時にはジャージだから」

という。

そんな訳で、卒業式へ向かう息子の見送りは、スーツを手に、マスク姿で遊び着の息子だった。

ちぇっ。

元気で楽しんでおいで^_^

息子が去った後のリビングで、私が見つけた古い楽譜を娘がピアノで弾く。

それは、まだ7才だった頃の発表会の時の様な勢いは無いものの、優しい音色がした。

「簡単だね」

「そう?」

譜面は簡単なのかもしれないけど、音楽にするには曲の簡単さや難しさとは比例しないのだと思う。

ただ、音色の変化に、大人になったのだと思った。

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