当たり前だと思わない環境
携帯を変えると、同じ機種でも最新になるので、操作方法も若干変わります。
今週もお祝いボードをいただいたようですが、スクショがうまく行かず、
消えてしまいました。
というわけで、振り返りの記事ではなく、新たな記事を書いて行こうと思います。
人というのは環境に慣れてしまいます。この慣れというのは一見良いことに思われがちですが、私個人的にはあまりいいとは思っていません。様々な環境の中で、適応するのが難しく、自分の中で試行錯誤していった中で、その環境にも慣れてくる。この現状をポジティブに考えることも出来るのですが、実際のところは、
慣れというのは、物事が停滞してしまいます。
「慣れ」という言葉を辞書で調べると、1.「その状態に長く置かれたり、たびたびそれを経験したりして、違和感がなくなる。通常のこととして受け入れられるようになる。」や2.「経験を重ねて、そのことがうまくできるようになる。習熟する。」という意味になります。経験を重ねて行くというのは、もちろん素晴らしいことです。その経験の中で習得を深めていくというのは、本当に大事なことだと思います。しかしながら多くの人というのが、この経験を深めていくという前の段階の、1の意味のような、
違和感がなくなるというところで満足してしまっているんです。
例えば、初めての経験する仕事についた。初めは緊張感を持ちながら仕事をしていたが、いつしか「慣れ」てくるうちに、緊張感が薄れていき、いつしか当たり前のようになっていく。私のnoteで何度か触れていますが、人というのは言葉を知っていたとしても、その言葉の本当の意味を知らない人が
多くて、この「慣れ」という言葉も、
いつしか「当たり前」というようなニュアンスで理解する人が多くなってきたということです。
「当たり前」の対義語は、「ありがたい」になります。これって意外と知らない方が多いと思いますが、実はそうなんです。漢字で書くとわかりやすいかもしれませんが、「ありがたい」を漢字に変えると、「有難い」となります。これを直訳すると、「有ることが難しい」ということなります。逆に「当たり前」を直訳すると、「有ることが常」になりますので、対義語と言う形になるわけです。
すべてのことを当たり前だと思っている人は、物事に感謝をしなくなります。
当然に「ありがとう」という言葉もなくなるわけです。
慣れというのも同じ感覚で、人は慣れてしまうと、それが当たり前になりますので、感謝をしないということならまだしも、それに安心して停滞します。停滞というのは成長がないということですので、
慣れてしまった時点で成長が止まるということです。
何事にも適度な緊張感が大事というのは、こういうことで、人というのはなれることよりも、適度な緊張感を持っていたほうが成長曲線は大きくなるということになります。当たり前というのは悪いことではないですが、全てが当たり前と思うのは良いことではありません。自分自身の成長のために、安心感もいいですが、
当たり前ではない環境を自分で作らないと行けないのではないのかなと思っています。
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