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【小説】さようなら、稲荷山先輩(起)

 会社の稲荷山先輩に対して感じている生理的嫌悪感について、ぼくはずっと語ってみたかった。しかし、それは結局のところ個人攻撃、というか他人の悪口でしかないので、そんなものを(たとえ誰も読まないとしても)公けにするわけにはいかない。そこで謂わば苦肉の策として、いわゆる生理的嫌悪感一般ついて簡単に考察してみたことがある。

 どうにも中途半端で歯切れの悪い考察になってしまったようだ。そもそもぼくの感じる嫌悪が、生理的なものなのかどうか、それすらも怪しくなってきた。

 次に稲荷山先輩の趣味の占いについて、とりあえず散々disってみたが、この非科学性批判の試みも又、彼に対する汲めども尽きない嫌悪の源泉を解き明かすには、到底満足のゆくものではなかった。彼の最大の関心事は占いではなく、実は食べること、それも炭水化物、いや糖質、の中でも特に麺類に特化しているのである。

 実はぼくは今年になって転職したので、稲荷山先輩とほとんど連絡をとっていなかったのだが、つい先程、昼間に電話があって(夜勤明けで寝ているので昼間に電話しないように、というか、連絡はメールでするようにと口を酸っぱくして何度も何度も言っているのに馬耳東風なのである)、衝撃的な告白を聞いたので、思い切ってこれまでの経緯を含めてそれをここに書き記すことで、嫌悪三部作を締めくくり、先輩とのお別れとしたい。

 先輩からの着信音を鹿威ししおどしの音に設定していたことを忘れていて(というかぐっすり寝ているからすぐに気がつかない)、雨戸を閉め切って真っ暗闇の中で睡るぼくの耳元にカコン、カコンと竹筒が石に当たる響いてくると、それはぼく夢の中にまで侵入する。その世界では都会の喧騒から離れて、なぜか田舎家の苔むした裏庭にぼくはいて、静かな心持ちで清浄な空気を味わっているのだった。

 カコン……カコン……カコン……ん? この鹿威し、やたら耳に障るな。まさか電話か? 一旦留守電に切り替わって着信音が途切れ、また深く安らかな睡りに潜り込もうとすると、またしてもカコン……カコン……カコン……稲荷山か、あの野郎、ふざけやがって、と寝返りを打って耳を塞ぐ。留守電に切り替わる。また鳴り出す。ふつふつと血がたぎりだす。

「昼間に電話すんなって、あれほど!」
「クビになった……」
「え?」
「だから、クビになった」

 とうとう会社を解雇されたというのである。

 ざまあみろ! とぼくは思った。言わんこっちゃない。散々注意したのに、何一つ聞かないからこういうことになる。ほんと、ざまあねえや。

(続く)

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