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占いについて #01

 自分のなかにある偏見に気づかされることがある。
 たとえば、占いについて。
 ぼくは占いが好きではない。いや、むしろハッキリと嫌いである。そこまでは嫌う理由はないはずで、興味がないなら無視すれば良いだけの話ではないかと思わないわけでもないけれど、積極的に占いや占い師を忌み嫌っている。そうなると、無視するどころか、向こうの方から目に飛び込んでくるのだ。
 ああいう非科学的などころか詐欺まがいの商売を、TVや雑誌で取り上げるのは教育上、あるいは倫理上よろしくない。食品には標準規格があり、医薬品は承認制で、それらの広告における不当表示は違法となるというのに、当たるも八卦、当たらぬも八卦といって、占いやオカルトは野放しになっているのである。
「あなた死ぬわよ」というセリフを、それこそ殺し文句のように使う女占い師がメディアで祭り上げられて荒稼ぎしていた、もしくは荒稼ぎしていたからこそ、メディアで祭り上げられたのか。
 アホか。人は死ぬに決まっているだろ。当然、彼女も亡くなったし。
 事故や自然災害について予言していれば、どれほど多くの人が救われただろうかと思うが、当然占い師や自称予言者にはそんな能力はない。

 ところで、ぼくの偏見というのは、占い師を忌み嫌うということではない(それは偏見だと考えていない)。そうではなくて、占いとは女子どものものであって、まさか大の大人がかかずらったりはしないという、そんな甘い考えのことであった。
 女子ども、そんなものの言い様が、少し差別的というか、高を括ったようなニュアンスがあるかもしれない。そもそも、大の大人というとき、女性はそこに含まれているのか。
 しかし、付き合った女性たち(そんなには多くもないけどね)は皆、ことごとく占い好きで、A子さんの本棚には占いの本しかなかったし、B子さんは肌身離さずタロットカードを持ち歩いていたし、C子さんは贔屓の占い師のところへぼくを連れていったのである。
 なんだたったの三人だけか? 女性一般が占い好きというのは、いくらなんでも主語が大きすぎるではないか! とはならない。あなたの母、恋人、娘、女友だちのことを今一度、振り返ってみて欲しい。
 女性誌には星占いなどの連載が少なくないようで、特集が組まれたり、まるまる一冊占いだけという別冊が出たりするが、男性誌では皆無ではないか。いや、別に男性誌が科学的で高尚、文化的であるなどと主張するつもりはないけれど、『文藝春秋』や『プレイボーイ』で占い特集が組まれることは未来永劫に渡ってないはずである。

 しかし、会社の稲荷山先輩はれっきとした大の大人であるにもかかわらず、というか立派なおっさんであるのに、これほど占い好きの人をぼくは見たことがない、というか、もはやほとんど占い師である。我が社では副業を禁じているはずなのだが、「占い 稲荷山」という名刺を社内どころか、取引先にまで配布している。ちょっと風変わりというか、かなりの変人であった。
 実のところ、稲荷山先輩はぼくの恩人であって、今の会社にぼくを引っ張り上げてくれのが先輩だから、足を向けては眠れない程の借りがある。だというのに、足を向けるどころが、つい足蹴にするような態度をとってしまうぼくは、恩知らずということになってしまう。
 しかし、もちろん、最初からそうだったわけではなくて(ひどい態度をとっていたら、引っ張り上げてくれるはずがない)、むしろ先の会社では、稲荷山さんを足蹴にする周囲を酷いと思って、殊更に優しく接していたのだった。部署が違っていたから、要するに他人事だったわけで、だからこそぼくが稲荷山さんの目に止まったのだと思う。

 話は変わるが、近頃生理的な嫌悪感についてその由来や効用をアレコレ考えて、ぼくの半生の中でもとくに強い嫌悪を感じた(それこそ蛇蝎のごとく)ふたりの人物について(思い出すのも嫌だけど)思い出してみて、改めて感じたことがある。それは嫌悪が先か、被害が先かという問題である。
 それは簡単に言うと、元々ヒトはヘビを嫌うようにインプットされているのか、それとも遠い先祖がヘビに噛まれたから、嫌うようになったのかということである。
 実は生理的な嫌悪感というのは、生理的ではなく、経験的・学習的なものではないのかというテーゼを提出したい。つまり、インセントな子どもは先天的にはヘビを恐がることを知らず、経験的に学習する、もしくは教えられるということだ。そうして刷り込まれた嫌悪があまりに強いものだから、ほとんど生理的であるかのように誤解してしまうことになる。
 なぜ、こんなことを考えたのかというと、それはぼくが稲荷山先輩を周囲から庇う立場からハッキリと嫌悪する立場へと転向したからであり、今ではもうただ嫌で嫌でしかたがなく、側にいるだけで怖気を振るうようになってしまったからなのである。ぼくはこの嫌悪に完全に囚われてしまった。
 脳神経学者がヒトの情動について書いた本に、好きの反対は嫌いではなく、無関心だとあった。対人感情は好き嫌いの平面的二項対立では測れず、関心の有無と、その関心のポジ・ネガ度合いで三次元的に表現されるというのである。だからこそ、「そんなに嫌いなら、放っておけば良いのに」というアドバスが意味をなさない。嫌えば嫌う程、人は嫌悪に囚われて、その嫌悪の対象が頭から離れなくなる。嫌いな芸能人を執拗に脅迫するような偏執的な人物を思い浮かべてみれば良い。ぼくも又、思春期の少年がいつも好きな女の子のことを考えているように、いつしか稲荷山先輩のことばかり考えるようになってしまった。もちろん、ネガティブな意味合いでである。
 先輩のブタっ鼻も、肥満体も、ヨチヨチ歩きも今ではすっかり「生理的」嫌悪の対象となってしまった。そうして、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い方式で、占いを嫌いになってしまったのではないのか、そんな風に考えているのである。
 この嫌悪から解放される唯一の方法は、この嫌悪を研究する他なく、この嫌悪を研究するためには、嫌悪の対象を観察する他ない。かくて、稲荷山先輩のことが一日中頭から離れなくなってしまった。以下はぼくの稲荷山先輩研究の結果報告、レポートなのである。

(続く)

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