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【掌編】ちょっとノイローゼ気味

 ちょっとちょっと奥さん、ほらあそこを行くのは鈴木さんのところの息子さんじゃない、働きもしないで昼間からぶらぶらして。長男なんですってね。たしか一人っ子よ。ほんとご両親も大変でしょうね。もう四十になるのに、家から出て行かないんですって。そういうのを近頃何ていうかご存知? 子ども部屋おじさんっていうらしいのよ、イヤねえ。

 髭も当たらず、油染みてべたべたした髪を伸ばしっぱなしにして、てっぺんは禿げてきてなんだか落武者みたいじゃないの。ぺらぺらに痩せて、ベルトもしないで垢じみたジーンズが腰からずり落ちそう。あら、なんかぶつぶつ独り言を言ってるわね。大丈夫かしら? 怖いわねえ、あらぬ方を睨みつけたりして。知ってらした、ちょっとノイローゼ気味なんですってよ。あ、立ち止まった。ちょっと、こっちの方を見てるんじゃない? ダメよ、ああいう人と目を合わせちゃ。怖いわよねえ。ふう、通り過ぎた、もう大丈夫。

 ううん、昔はね、ああじゃなかった。うちの子と学校が同じで、それはもう小さい頃から知ってるのよ。勉強ができて、神童という評判だった。そうそうお母さんが教育ママで、毎日のように塾へ通って、友だちと外で遊んでるところなんて見かけたことがなかったけれど、それでもガリ勉タイプではなく、すれ違うときちんと元気良く挨拶できる子だったのに。名門大学を卒業して、一流企業に就職して、それは鈴木さんも鼻高々だったでしょう。それがこんなことになるなんて、ホントわからないものねえ。

 え、何があったかですって? それがわからないのよ。鈴木さんも、ほら、ご自慢話ばかりの方でしょう。都合の悪いことは一切口にしないんだから。でも噂によると、人間関係がうまくいかなくて、ノイローゼになって実家に帰ってきたみたい。それがもう十年も昔のこと。やれ神童だ、天才だなんてもてはやされても、やっぱりそんなものなのよ。いくらお勉強ができても、実社会に通用するとは限らないでしょう。ほら、毎日が勉強、勉強で、外で友だちとのびのびと遊んだりした経験がないから。だから、人とうまくやっていけないのよ。そうよ、そうに決まってる。鈴木さんのね、教育方針が間違っていたんです。かわいそうにもう取り返しのつかないことだけど。ご主人だって、数年前に大病してから寝たきりというじゃありませんか。要介護の旦那と無職の息子さんを抱えて、一体この先どうなさるんでしょう!

 ちょっと奥さん、鈴木さんのところの息子さん、こっちへ戻って来たじゃないですか。なんですか、血相変えて、凄い勢いで。あら嫌だ、聞こえたのかしら。ずんずんずんずんまっすぐ向かってくる。目を合わせちゃダメよ、知らないふりをしなくちゃ。あの方、ちょっとノイローゼ気味だから、関わり合いになると厄介だわ。

「お母さん、さっきから通りで大声で独り言を言って、大丈夫か? みっともないったらありゃしない。とにかく、もう家に帰ろう!」

(了)

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