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【短編】ジャズと現象学 前編

 先ず初めに注記しておかなければならないのはタイトルについてであって、なぜこんなタイトルを選んだのかは、読んでいただければわかると思うが、私(書き手=語り手)自身はジャズに対して思い入れがあるどころかまったく無知であるばかりではなく、そもそも好きですらなく、現象学という哲学のジャンル(?)に関してもそれがなんであるのか説明することができないということである。


 ようやく蔓延防止等重点措置が解除され、コロナ禍の前に通っていた近所のジャズバーに久しぶりに顔を出してみたら、カウンターの中にいるのは見知らぬ若い男であった。浅黒い整った顔立ちで、日本人とは思われない。おや、と思いつつも、とりあえず飲み物を注文してから「マスターは?」と尋ねると、何度も同じ質問を受けて何度も同じ答えを繰り返してきたのであろう、「あー、マスターは亡くなりました」と流暢な日本語で彼は答えた。
 その知らせはもちろん不意打ちだったわけだけれど、マスターの飲酒量、喫煙量、そして肥満ぶりから、彼の健康を心配し、お節介なことにもあれこれ小言を言っては煙たがられていた私のことだから、こういうこともあろうかと予想していてもおかしくなかったのに、今正に不安が的中したと知らされたのが不意打ちとしか感じられないのが我ながら解せなかった。そんなはずがないのに、このまま何事もなく日々は過ぎてゆくだろうという正常性バイアスと、イヤな予感がして様々な心配を抱える不安症の狭間で、ずっと揺れ動いていた気がする。そして、まだ死因を聞かされないうちから、まったく無意識のうちに酒・煙草が原因であると決めつけて、深く長い長い溜め息を吐いているのである。
「いつ?」
「去年の10月です。心臓発作で、ご自宅で亡くなっておられました」
「もう半年以上も前の話か!」
 すると、狭い店内に唯一の先客であった美人であるけれど不健康そうな、というのは喫煙のせいだけではなく、カウンターにしなだれかかるような姿勢が運動不足による筋力の衰えを感じさせる黒ずくめの長髪の女が、「オーウェンさん(マスターの愛称)のお客さんだったんですか?」と割り込むようにして尋ねてきた。
「ジャズに疎いのでそんなにも来てはいませんでしたが……」
「私はミユキといいます。前はこの通りの先のスナックに務めていて、オーウェンさんが来てくれて、私もこの店に来るようになって、去年彼が自宅で転んで骨折したときに、時短営業でカウンターに立ったりして。彼が亡くなって、そのままこの店を引き継ぎましたが、昼間は仕事があるので、カウンターは日替わりでバイトに任せて、私はこちら側で只酒呑んでるわけです。あのね……」とここで声を潜めて、「心臓発作という診断だったのですけど、ワクチン接種の三日後だったから、私はワクチンが原因なんだと思ってます」
 なんとも答えようもなく、ただ「んー」とだけ唸ると会話が途切れて、今流れている聞いたことがあるような名前の人の聞いたことがあるようなサックスの旋律(回転中のレコードのジャケットが棚に立て掛けてある)も、ひょっとしたら初めて耳にしているのかもしれないと思った。マスターがジャズの蘊蓄を傾けるようなところがなかったのは、何を聞いても区別のつかない私の耳に失望して、話しても甲斐がないと思っていただけなのかもしれない。
 ミユキさんが席を立つ合間に、自己紹介したベトナム人であるホアン君はシラフでキビキビと動き、取り替えたレコードに針を落とすとこちらへ振り返って若い目力のある瞳を薄暗い照明に輝かせながら、「ぼくは、マスター、ワクチンで亡くなったとは考えていませんから」とキッパリ言った。

 ガード沿いの飲み屋街をずっと外れへと辿ってその奥、繁華な賑わいが終わりそこから先は住宅地へと踏み入る堺の辺りにそのジャズバーは位置していて、呑み歩いていて、おや、こんなところに新しい店がと思ったのもつい数年前のことでしかない。いつ前を通っても客がいなくて、通りよりも薄暗いような店内でハンチング姿のオーウェンさん(その当時は名前を知る由もない)がひとりポツンと佇んでいる。入り口から見て、L字型を左に180度回転させたカウンターだけの、十席ばかりの窮屈なスペースの店で、路上の電飾スタンド看板にJazzとある。学生時代、ということは何十年も前に新宿の有名なジャズバーへ柄にもなく足を運び、全然浸れずに時間を持て余し早々に退散した記憶が甦ると、入ろうとは思わなかった。
 実のところ、当時(というのは学生時代ではなく、オーウェンさんが店を開いた頃)私が通っていたのは、その二軒手前の角地にある、日本人のある世代なら誰でもその名前を聞いたことがあるはずの漫画の作者、の未亡人がやっている店だった。その漫画が絶大な支持を受けたのは自分が上京する以前のことで、定食屋や中華料理屋のカウンターの下の棚などに決まって週間漫画雑誌などとともに置かれていたように覚えている。その頃には目を向けもしなかったけれど、これも何かの縁かと未亡人から借りて読んでみると、ギターを背負って田舎から上京してきた若者が、ドカチンで食いしのぎ、酒に溺れ、女の尻を追いかけ回す(どころか、実際はシャレにもならない強姦未遂)といった内容で、その舞台がなんと今まさに自分が暮らしているこの界隈なのであり、つまりここに未亡人のユミさんは店を開いたのであった。
 作者の方は(マンネリに陥り、もはや描かずとも印税で悠々と暮らしていけるのだから)筆を折り、ひたすら酒を呑み続け(「起きたと思ったら、もう呑んでる」)、体を壊して医者に酒を止められ、止めるとみるみる体調が回復したから又呑みはじめて(「起きてから寝るまでずっと呑んでたの」)、今度は止めることもなくおよそ二十年前に五十手前で亡くなって、遺産は全て両親が持っていったという(「お前がいけないのだ、と言われて、面倒臭くなってあげちゃったのよ」)。
 このユミさんの店のすぐ近くの(ということは、ジャズバーにも近いのだが)、夜の八時から朝の八時まで十二時間営業(母娘の二人で分担)している居酒屋で、店を閉めたサチさんと合流して土曜日の明け方に呑んでいると、べろべろに酔ったハンチングに口髭の男がやたら馴れ馴れしく話かけてきて、何者かと思ったら、「二軒隣に新しくできたジャズバーのマスターよ」と紹介されたのだった。
「今まで読んだ小説で、人生のベストスリーは、セリーヌの『なしくずしの死』、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、ヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』だ」何の脈絡もなく、割り込むようにしてマスターが言った。この後、この時の出来事を何度か話したものだけれど、ご本人は全く覚えていたなかった。
 おや、と思ったのは、自分は小説に順位をつけたり、映画に点数をつけたりするのは好きではないものの、セリーヌ『夜の果てへの旅』、ブロッホ『夢遊の人々』(鈍器として人を殺せる分厚さを持つ、細かいポイントの文字がみっちり詰まった、上下二段組みの難解極まりない大長編であって、誰もが手軽に読めるものではない)を読んだことがあって、『なしくずしの死』も『ウェルギリウスの死』も積んでいたからであった。
「しかし、ブロッホ『ウェルギリウスの死』を読むためには、ウェルギリウス『アエネーイス』を読んでおかなければならず、『アエネーイス』を読むためには、やはりホメロス『オデュッセイア』を読んでおかなければならず、『オデュッセイア』を読むなら、『イーリアス』も読んでおきたいところではないのかな」
 ジャズには詳しくなくても、文学の知識なら多少はあった。しかし、知識があるというのは、読んでいるということとはまるで異なる。長らく『ウェルギリウスの死』を積んでいながらなかなか手が出ない(未だに未読である)のは、上記のような理由による。
「『アエネーイス』? 読んでないなー、読まなくても全然問題ないよ」
 大昔の文学遺産が重くのしかかってきて、押し潰されるような想いをしていた私を笑い飛ばすように、マスターは軽い口調で言ったのだった。

(続く)

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