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「お天道様はいつも見ている」的なアレ


今日はハロウィーンですね。10月31日。太陽が顔を出す時間もめっきりへり、紅葉もろくに見ていないのにマフラーを引っ張り出すような季節になってまいりました。

全然関係ないけど、タイトルにはお天道様と書きましたが、今日渋谷とかに行けば「フランケンシュタインはいつも見ている」みたいな感じの現象に遭遇できそう。


自分が子供の頃、たぶん幼稚園とか保育園ぐらいの年齢の時、自分の親ではなく親の親、つまり祖父母世代からとりわけこの言葉を聞いていた記憶がある。「わるいことするとお天道様が見てるからね」ってやつ。

多分、その年齢の時(3−6歳ぐらい?)いわゆる情操教育ってやつの時期もあってか、「因果応報」的な教訓を心根に叩き込まれた記憶がある。「閻魔様が舌を抜く〜とか」。

当時の私は、純真無垢なお子様で言われたことを素直に何でも聞くような良い子ちゃんだったので、「悪いことすると、自分にもバツがくるんだー」とすっかり違和感なく信じ込むようになってしまった。

別に今、悪いことをして生きているわけではないし「因果応報」の考え方に対して好きも嫌いもないんだが、その「教え方」にはおとなになった今、少し疑問をいだいている。

疑問点は2つある。箇条書きにしてみる。

1.プロセスむちゃくちゃすぎひん?
2.「悪いこと」って何?

書きながら自分で見ていてすごくnoteに似合わいひねくれ全開の文章だなあと思っている。でも仕方ない。書きたいのだから。ちなみに、この記事を書きたいと思ったきっかけは、今日友人とラインをしていて、「途中まで草(w)を使って話していた友人が、その次のやり取りでいきなりブチギレてきた」ことです。(まあ、私が悪いのかもしれんがいきなり切れられて糞ビビった)

1.のプロセスむちゃくちゃすぎひん?っていうのは、そのまんまである。例えば、「悪いことをすると閻魔様に舌を抜かれる」。似たようなものだと、「無視一匹でも殺生すると地獄に堕ちる」みたいなやつ。
おとなになった今でも想像するだけで恐ろしい教えである。だって、「悪いこと」ってなに?っ感じだから。
私だって、「悪いこととされていることにどんなものがあるのか知らない」わけではないし、「これされたらこの人嫌かなあ」というのも生活の中で考えながら、生きている。ただ、漠然とした概念への信頼感というか、「不透明でのあることへの盲信」が日本人は(少なくとも私自身は)すごく強い気がするのだ。
 例えば仮に、友人とランチに行ったとする。その時機嫌のよかった友人は私にランチを御馳走してくれたが、最近ダイエット中の私は、少し残してしまったとする。
この場面に「日本古来からの教え」を当てはめると極端な話、下手するとこれだけのことで自分の舌を見ず知らずのおっさん(閻魔様が実在して本当におっさんなのか知らないが)に抜かれるかもしれない。「せっかく友人の奢ってくれたランチを残すなんて、なんて悪いやつなんだ〜。貴様の舌なんか抜いてやるぜー」って。ランチ1000円だか2000円だかのおしゃれなレストランで食事後の会話を楽しんでいる友人と私の間に閻魔様がやってくる。
私も友人もレストランも良い迷惑だ。


大体、閻魔様はどこから来るんだろうか。テーブルとかレストランの床からぬぬぬってゆっくり浮かんでくるのか、それとも一切姿は見せず、急にろれつの回らなくなった私に友人が気付き「閻魔様!」となるのか。はたまた、自宅に帰ったら「よう。」みたいな感じで、座布団の上にあぐらを書いて座っているのか。

どの場面を想像しても、閻魔様の方が犯罪めいているのは気のせいだろうか。


もう自分でも書いててわけわからなくなってきたし、上で1.2って分けた割には言いたいことの根幹は同じだと気づいたんだけど、日本の「教え」(他の国でももしかしたら同じかもしれないけど)って、「なんでそうなるのか」とか「具体的にどーいうことなのか」とかがはっきりしないものが結構あると思う。なんというか、「説明されていないとところは各々の想像力の裁量にお任せします」みたいな。言葉による説明27%・自己解釈(自分の気持ちや考えではない)73%みたいな。

「お察しください」「お察ししました」「じゃあ次に行きましょう」。
コントみたい。

自分も含めてこーいう環境で育っていると、「説明しないのが当たり前」「説明されるのは恥ずかしい」みたいな価値観になりやすいと思うのは私だけだろうか。いや。実際に、「自己主張しない日本人」「恥の文化、罪の文化」「主語がない日本語」みたいな言葉を本屋さんやSNSでよくみかける。


書いていてどうしたら良いのかわからなくなってきた(別にどうもしないし、しばらくするとこの記事を書いたことも忘れると思います)。


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