見出し画像

29年目の1.17 会ったことのない他者を忘れないこととは

直接体験したわけでも、幼い頃から話を聞いてきたわけでもありません。1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災のことです。長崎県出身で、リアルタイムなのは高校2年時の東日本大震災だった私にとって、それは歴史上の出来事でした。

関心を抱くきっかけは大学進学で神戸にやってきて、偶然入った新聞サークルの活動で、震災で家族を亡くされた方や、ボランティア活動を続ける人々と出会ったことでした。それぞれの思いを抱える人と共に1.17を過ごす中で、この出来事を大きな防災や風化の問題ではなく、もっと身近な何かとして捉えるようになっていきました。

震災から29年となる今年は、仕事を辞めて再び神戸に住むようになって、初めて迎える1.17でした。広島で働いていた時は1回しか現地に行けませんでしたが、早朝のラジオ中継は聴いていました。

16日の夜に向かったのは、震災遺族上野政志さんの講演です。当時神戸大学の2年生だった志乃さんを亡くしています。毎年、前日に大学近くで経験を語る講演会を開き、17日の朝は下宿跡を訪れます。私は大学生の頃、サークルの活動で上野さんに付いて回るのがルーティーンでした。もちろん志乃さんと面識はないのですが、所属していた学部も私と同じで、印象深く感じていました。

上野政志さん

29年前、志乃さんは成人式のため帰省していた佐用町の実家で上野さんに見送られた後、そのまま神戸の下宿で友人と犠牲になりました。語り部として活動する上野さんは、昨年東遊園地の慰霊祭で遺族代表あいさつも務めています。あいさつや講演の内容は、私もかつて所属していたサークルのウェブ記事でアーカイブされています。


今年で76歳になった上野さん。ガザの攻撃や能登半島地震など、生と死を巡る最新の出来事へのメッセージもありますが、講演は基本的に毎年同じ内容です。しかし不思議なことに、私の方は新しい話を聞いたかのような感覚になります。ぼんやりした大学生だった10年前は考えもしなかったことが、頭に浮かんでくるのです。

例えば「逆縁」という言葉。子が先立ち親が供養をすることを意味します。親を見送る「順縁」は普通時間と共に悲嘆の感情は落ち着きますが、「逆縁」は決してそうではない。一生背負い続けるのだと上野さんは強調します。もし突然自分が突然いなくなれば、年老いた故郷の両親はどうなってしまうだろうか。安定した職に就いていない自らの現状もあって、余計に重みを感じます。

上野さんは「私は『諦めと受容』ぐらいですかね」と、有名な「悲嘆のプロセス12段階」の図をスライドに映し、志乃さんを失ったグリーフ(悲嘆)の状態について吐露します。29年経ったからといって、乗り越えたわけではないのだと。


時間は確かに、災害やそれに伴う喪失を経験した人々の態度を変えていきます。しかしそれは均質で一方向のものではない。大切な人や家や営みを失ったか否か、その後どんな体験をしてきたか。辿ってきた軌跡によって、一人ひとり異なります。上野さんは語り続けることで悲嘆を変化させ、新たな繋がりも築いてきましたが、同じ震災遺族でも、心を閉ざし続ける人々はたくさんいます。決して一般化できないのです。

災害や喪失と向き合うことは、時間だけでなく、空間に根差しています。翌17日の朝、JR六甲道駅西琵琶町の志乃さんの下宿跡に向かいました。戦災を免れたため木造長屋や文化住宅が密集していた琵琶町は、震災で70%の家屋が全壊・全焼し、61人が亡くなりました(※1)。

一軒家に囲まれた路地の一角で、上野さんは台を置いて志乃さんの遺影を飾ります。神戸大学のボランティア団体「学生震災救援隊」の出身者や現役生、新聞サークルの先輩後輩も集いました。10人以上はいたでしょうか。「娘のことを知らない人がこんなに来てくれた。同じ時間を過ごすことができて本当に良かったです」。全員が黙祷と焼香をした後、上野さんは少し声を詰まらせていました。

上野志乃さん

大学生の頃から、周囲の家で鳴っている目覚まし時計や住人が階段を下りる音を、複雑な思いで聞いていました。震災後に新築された家に住む人々は、かつて同じ場所で亡くなった人を弔う集いにどんな感情を抱いているのか。例え被災をしていても、早く震災のことなど忘れたいと思う人もいるのではないだろうか。

近くの琵琶町公園には慰霊碑が立ち、献花台が設けられていますが、以前と比べ花の数は減り、住民もまばらでした。地区の大部分は区画整理されたきれいな住宅街で、隣の六甲道駅南側エリアは復興再開発の成功例として、高層マンションがそびえています。低廉な借家やアパートで暮らしていた人々の多くは、この町に戻ってくることはありませんでした。「災害は元からある社会構造の矛盾を浮き彫りにする」。大学生の時ある人から聞いて、なんとなく印象に残っていた言葉です。この町もそうした矛盾を体現した空間だったことは、最近まで気づきませんでした。

琵琶町公園

「人は忘れられた時、本当の死を迎える」。上野さんが事あるごとに繰り返す言葉です。神戸で開き続ける弔いの場は、志乃さんの存在と、上野さんの生き様を通して、今立っている地面で何が起き、どのような時間軸で何がつくり変えられてきたのかを想起させてくれます。

そして同じ時間と空間を共有することで、私たち一人ひとりのつながりを再確認することもまた、可能になるのです。16日の夜と17日の朝は、講演会の参加者たちと上野さんを囲んで食事を共にしました。救援隊の世話を続けているある男性からは、文化住宅で半日生き埋めになった自らの経験や、避難所の混乱について聞きました。別の方は年始の能登半島に知人に物資を届けるため入った時の様子を語り、ボランティアが過剰に躊躇することの問題点も議論になりました。不思議ですが当事者の間で震災の話は、どこか昔を懐かしむかのように語られる時があります。この場は和やかな雰囲気で、サークルの先輩後輩とも久しぶりに近況を報告し合ったりしました。

生きていれば志乃さんは今年50歳。会ったことのない他者を忘れないということは、自分はどこでどう生きるのかを問うことと直結しているのではないか。上野さんとの時間を経てから、考え続けていることです。

(※1)西野淑美(2006)「ライフステージの中の震災後住居選択 : 神戸市琵琶町(六甲道西地区)住民への調査から」社会福祉 46巻, p.177-191 日本女子大学社会福祉学会


この記事が参加している募集

#防災いまできること

2,476件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?