見出し画像

【読書感想文】夏目漱石『夢十夜』第十夜 --夢を醒ます夢


「こんな夢を見た」から始まる不思議な夢の世界、その終幕が第十夜である。

 第十夜では、健さんが語り手に庄太郎の話を伝えに来る。
 庄太郎はパナマ帽がトレードマークの、というからにはおそらくそれなりに裕福な、町内一の好男子で、至極善良な正直者だという。
 ただ水菓子屋の店先で女の顔を眺めるのが趣味なのだから、少々軽薄な印象の人物ではある。
 その庄太郎が「女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就いている」のだと健さんはいう。
 身分のありそうな女にどこぞの絶壁に連れていかれ、豚の群れに襲われ、七日後にやっと帰ってきた途端に床に就いてしまったらしい。
 「健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善くないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
 庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。」
 この言葉をもって、この『夢十夜』は終幕となる。

 健さんの「だからあんまり女を見るのは善くないよ」はやや唐突な印象である。
 庄太郎の体験は非現実的な不可思議なものであり、にもかかわらず異世界の呪いや何かではなく「女を見た」ことが悪いのだという結論は至極現実的で普遍的だ。
 そして語り手は「けれども」と言葉を繋ぐ。
 「けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた」、逆接であるのだから、語り手は健さんの「パナマの帽子が貰いたい」もやはり庄太郎と同様の罪だとみていることになる。
 「女を見る」とは何だろうか。
 庄太郎は女好きだから、その淫蕩の性質によって身を滅ぼしたと読むのもおそらく可能である。
しかし、庄太郎がまずは女の身分のある人らしい立派な服装の着物の色を気に入り、その上大変女の顔に感心したのだと描写されているのを見ると、単純に好色の罪のみをそこに読み取るのは少し不自然なように思える。

 そして庄太郎はなぜ助からないのか。
 パナマは健さんのものだろう、とこの物語は幕を下ろす。
 庄太郎がもう助からないと語り手は考え、だから帽子が形見分けされることを予想したのだと読むには、この物語の描写はやや捻れているように思える。
 表現を素直に追うなら、語り手の思考は、「健さんはパナマの帽子が貰いたいと云っていた」、だから「庄太郎は助かるまい」の順だ。

 当時、パナマ帽は紳士用の正装として流行した高価なものであった。
 だからパナマ帽は富の象徴であるし、成熟した西洋文明の象徴でもあるだろう。
 また、果物を見ながらその見た目のみを褒める庄太郎は文字通り表面的な造形であり、実直な中身が備わっている類の男とは読み取りがたい。
 すれば、庄太郎は、パナマ帽や洋杖といった西洋文明によって外形的に象られた「外発的な開化」の象徴とも読める。
 『現代日本の開化』でいうところの「外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取る」外発的開化、庄太郎の姿にその姿が仮託されているなら、外形的な力、つまり西洋文明の象徴であるパナマ帽を失えば、彼が彼として存在できなくなるのは自然である。
 一方、健さんも、自身の内発的な行動の結果としてではなく、偶発の庄太郎の受難に乗じて庄太郎のパナマ帽を手に入れようとしている点で同類ともいえる。

 そう見ていくならば、「女を見る」ことも単に好色というだけではない、庄太郎の認識があくまで「見る」だけの、表層的な部分に留まることの一つの表現と読めそうである。
 果物の色や女の顔をただ「眺める」のを道楽としている庄太郎は、西洋の文化その内実を真に理解することなく皮相上滑りになぞっていくしかない日本の在り方を表していると読める。
 しかしそのことに無自覚な庄太郎は、女自身と向き合えばたちまち敗北する。
 単に他者を眺めるだけの在り方は畢竟自己として生きる者には叶わない。
 いくら戦争に勝ったと浮かれてみても、形ばかりの真似事に留まる限り結局日本は西洋に伍することはできない。
 「女を見る」こととは、つまりその無自覚で表層的な受容の在り方を指しているとみることができよう。


 さらに深読みしてみたい。
 以上をまずは第一階層での読みとして、第二階層の解釈の可能性を探ってみる。

 『夢十夜』においては、物語は夢の中にあった。「こんな夢を見た」から始まる第一夜のとおり、現実とは一線を画した虚構の話である、という前提を確認したうえで物語は展開する。
 しかし夢を見たと語る存在が示される限り、その裏に夢から醒めた現実世界が存在することを想起させる構造でもあった。
 『夢十夜』における現実性はネガとして物語に映しこまれるオブジェクトなのであり、夢という虚構の舞台の上で、現実性は様々な事柄に仮託されて表現されてきたといえるだろう。
 さてそれを踏まえ、十の夢の終わり、この第十夜を、どう読むか。

 前夜の夢を考えてみる。
 第十夜の前話、第九夜は夫が浪士に殺されたことを知らずその無事を祈って夜ごと御百度参りする女の話である。
 そしてその末文は「こんな悲い話を、夢の中で母から聞いた」と結ばれる。この夢のあり方は、それまでの夢の様相とは異なるものといえる。

 十夜のうち、「こんな夢を見た」から始まるのは、第一夜、第二夜、第三夜、第五夜だ。
 それ以降はこの断りは置かれなくなるのだが、第九夜に至っては、物語と夢の間には明白なずれが生じている。
 語り手は女の話を語る母の夢を見たのか、もしくは母の語りを夢の中で聞いたのか、いずれにせよ御百度参りの女の物語は語り手の見た夢そのものではなく、「夢」の枠がどこまでの範囲を覆っているのか曖昧にぼかされるのだ。
 第九夜において夢という虚構の枠は明確には閉じられない。
 この物語はもはや必ずしも夢の内に留まらず、そこから滲出し得る位置にあるのであって、つまり第九夜においては物語世界の虚構の前提、それ自体に留保が付されているといえるだろう。

 第一夜では、月の光の差す真珠貝で穴を掘り、星の欠片を墓標にし、白い百合が女だった。
 それは生のリアリティが明確に封じられた、いわば現実性がアレゴリーに閉じ込められた世界であり、その「夢」ははっきりと現実の対岸に置かれた幻想世界であった。
 しかし対岸の幻想から始まった「夢」は時間と距離と認識とを超越する話群に呼応するようにその位置を転回し、気づけば我々のすぐ隣で曖昧に現実に溶けだしつつある。

 『夢十夜』は1908年7月から8月に朝日新聞に掲載された小説だ。
 だから、この話の読者は新聞をめくってこれを読んでいたはずである。
 第九夜は「世の中が何となくざわつき始めた。今にも戦争(いくさ)が起りそうに見える」と始まる。
 物語中ではこの「戦争」は足軽が犇く時代の日本の合戦を指している。
 しかし1908年、未だ日露戦争の余韻も冷めやらずやがて第一次世界大戦へ向かうこの時代、新聞をめくって「戦争が起こりそうに見える」と出てきたならば、まず読者に想起されるのは現実の戦争とそれにざわつく世情だっただろう。
 物語は父が浪士に殺されたことを知らずにその無事を祈り続ける母と幼子を描く。
しかし新聞をめくればそこには現実のニュースが展開する、その状況に呼応するように、御百度参りする母と子の物語の裏には現に日露戦争で父を亡くした母子がいたのであり、それを純粋に「悲い話」とのみ呼ぶ物語の裏には、徴兵され国民の義務を果たしてこそ忠良の日本国民だと教える現実の教育があったのである。

 さて、では第十夜に戻る。

 「庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。」
 この末文を夢に侵食する現実の目線で再度読んでみる。

 『夢十夜』全文中、パナマ帽を指す表現は、この第十夜末文を除いて計6個存在する。
 第八夜に1個、第十夜に5個であるが、この6個はすべて「パナマの帽子」の表記であり、「パナマ」のみで表されるのは第十夜末文だけだ。
 最後に健さんのものになるだろうこの「パナマ」も、庄太郎のパナマ帽を指していると読むのが自然ではある。
 しかし、表現を拾うなら、もう少し裏読みできるかもしれない。
 この物語においては、庄太郎の帽子を意味するとき、必ず「パナマの帽子」と呼び表してきた。
 だから、この物語においては、「パナマ」の単語は最初から「パナマ」それのみしか意味していない
 「パナマ」をそのまま「パナマ」と読んだらどうなるか。
 その持ち主である庄太郎は斃れ、次には健さんがパナマを所有するだろうと物語はいう。
 パナマを文字通りのパナマ、つまりパナマ国と読むならば、この末文はつまりこう読める。
 『現在の宗主国から独立しても、パナマは属国であり続けるだろう」

 パナマ、つまり現在のパナマ共和国はこの時期の世界情勢上、重要な位置を占めた国である。
 カリブ海と太平洋を結ぶパナマ地峡は、交通および軍事戦略上きわめて重要な位置にある。
 そのため各国は早くからこの地の運河建設を目的に競ってきたが、種々の混乱を経て20世紀初頭にアメリカがその権利を得ることとなった。
 当時パナマはコロンビアの直接の支配下にある一州であった。
 アメリカは運河建設を進めるためコロンビアとの間の条約に調印するが、コロンビア議会はこの批准を拒否する。
 そのためアメリカはパナマの分離・独立を画策し、コロンビアの内戦に乗じてパナマ独立派を支援する。
 その結果、1903年にパナマはコロンビアから独立した。
 アメリカはこうして新たに誕生したパナマ共和国との間に条約を結んで運河地帯の永久的な租借権を得ることに成功し、さらには幾度となく介入し、直接干渉し続けた。
 よってこのとき、パナマ共和国は名目上は独立国としてありつつ、実質的にはアメリカの植民地としてあったのであり、パナマがアメリカから主権を取り戻すには、この後、実に1999年まで待たなければならなかった。

 パナマ地域の動静については、日本でも逐一新聞報道されていた。
 ワシントンでのパナマ運河条約の調印の報(時事1903.1.25)、コロンビア議会条約批准に至らず(時事1903.2.20)、パナマ独立(東朝1903.11.6)など、当時の日本においても人民の関心ごとであったことが伺える。
 それまでの流れからやや唐突の感がある第十夜の末文は、当時の読者らに、この背景をいくらか想起させなかっただろうか。
 そうだとすれば、この末文の裏には、経済的軍事的な優位性を争い摩擦を起こす世界の影絵が透けてくるだろう。

 では一方、庄太郎を倒すこととなる豚の群れとは何か。
 絶壁から落ちてゆく豚の群れ、これはおそらく「マルコによる福音書」第五章に出てくる悪霊の話を下敷きにしている。
 「ゲルゲザの墓場に、悪霊に憑かれて凶暴になった人が住んでいた。悪霊はイエスにここから自分を追い出さないようにと懇願し、男の体から出る代わり、近くで飼育されている豚の群に乗り移ることを許すよう願った。悪霊が豚の群れに乗り移ると、豚の群れは一斉に険しいがけを駆け降りて湖へなだれ落ち、溺れ死んだ。」

 福音書においては、悪霊は”レギオン”と呼称されている。
 「数が多いのでこう呼ばれる」との注釈がつくが、レギオンとはもともとローマ軍団兵を指す言葉である。
 豚の群れが取りつかれているところの悪霊が「軍団兵」の名で呼ばれることは、ここにおいて示唆的であるように思われる。
 「パナマ」をめぐる登退場に国家間の経済的軍事的優位争いを見、豚の群れに軍団兵を見るなら、それらが照射するものはそのまま現実上に焦点を結ぶ。
 庄太郎を巻き込む豚の群れ、それはすなわち世界の利権と優越性を得ようとする軍団兵たちなのであり、その光景は帝国主義戦争の影を示すのではないか。

 豚が帝国主義戦争世界の軍団兵だとすれば、女はそれを率いるもの、つまり国家かもしれない。
 ひとたび女に追従した庄太郎は、もはや豚と同じく飛び降りるか、豚に舐められ倒れるかのいずれかしかない。
 個の豚たちは少し打たれただけでもあっけなく命を落とす。
 しかし集団としての豚に際限はない。
 個の意志はなく、また個の意志で止まる術もなく、豚たちは女のことばそのままに無尽蔵に現れては盲目的に谷底に落ち続ける。
 福音書の表現で言うなら、それは凶暴で自傷的な悪霊に取りつかれた集団的破滅であった。

 1908年、『夢十夜』のすぐ後に連載開始された『三四郎』において、広田先生は日本の発展を夢見る若い三四郎の言葉を否定し、「滅びるね」と言いきった。
 「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」。
 批判的なことを口に出せばすぐに国賊として殴られるような世間を当たり前として成長し、戦争の勝利に単純に浮かれる三四郎の、いわば無自覚な国家主義ともいえるあり方に、広田先生つまり漱石ははっきりと批判的な視線を向けている。
 その後の日本の行く末すら予言するような慧眼と見えるが、つまりはそれに共通する視線が、『夢十夜』においても貫かれているのではないだろうか。

 現実の対岸にあったはずの夢の世界は、いつの間にか夢の世界から溶け出しながら目の前の現実に滲出する。
 それはまるで気づけば途端に重くなる第三夜の背負い子のように、我々が気付かないでいる現実社会の様々な綻びまでをも眼前に表しながら、重く意識に食い込んでくる。
 『夢十夜』の最終幕第十夜、我々の目を現実への覚醒に繋げて、その夢は結ばれる。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,937件