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【読書感想文】夏目漱石『夢十夜』第一夜 --果たして、百合は、女なのか。
第一夜。
”こんな夢を見た。
女が死ぬ。女は男に百年待っていて下さい、きっと会いに来ますから、と言う。
男は星の破片の墓標の傍で日を勘定しはじめる。
待ち続け、やがて女にだまされたのではないかと思いだしたころ、目の前で百合の花が咲いた。
百年はもう来ていたのだ、と男は気付いた。”
さて、夢十夜は「こんな夢を見た」から始まる十の夢の物語である。
まず『夢十夜』を読むうえで、「夢」の構造を意識しておく必要があるだろう。
夢は夢である。夢である限り、そこでは現実的な客観性は留保される。
だが夢十夜においては、フロイト的な解釈を持ち出すまでもなく、客観性はかならずしも留保されない。それを裏付けるものが、冒頭で「こんな夢を見た」と「語る存在」である。
「こんな夢を見た」から始まる限り、夢の世界は夢の世界だけでは完結しない。「夢を見ている者」という在外の存在、つまり現実世界をネガとして物語内部に規定する。
つまり、入れ子構造としての現実世界、構造としての二重性が、最初からこの夢に投影されているわけである。
以上を踏まえたうえで、第一夜に根源的な問いを設定しよう。
果たして、百合は、女なのか。
「百年待っていてください」と女は言い、死ぬ。そして男は日を数え始める。
死んだものを待つ行為は、夢の中の男にとっては希望である。だが夢から覚めればそれは徒労である。
それが徒労であるという現実認識は、「夢を見ている者」の構造的二重性によって物語に投影されるネガである。
男は百年を待ち、日を勘定する。東から上り西へ落ちる太陽を、「一つと自分は勘定した」「二つとまた勘定した」と、待つ男の勘定が極めて現実的な時間感覚であることが読み取れよう。
やがて石の下から茎が伸び、男の目の前で百合の花弁が開く。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
と、ここで物語は終わるわけであるが、ここでひとつ注意しておくべきことがある。
百年は勘定によって訪れたのではない。これほど客観的に日を勘定していた男は、「この時初めて気が付いた」…つまり、「百年を勘定していない」のである。
これに関しては石原千秋氏(*)が「この男が「真白な百合」を女だと信じない限り、「百年」は決してこの男に訪れはしない」と指摘している。客観的な時間感覚を超越することで、初めて百年は訪れたのだ。
女を出現させるためには、百年という可算の時間は、非可算の時間へと変容しなければならなかった。
それはつまり、現実から非現実への変容である。世界を変容させることによって、ここで男に約束の時間が訪れるのだ。
果たして百合は女であるのか。
その問いに対する答えは、「『男の認識の限りにおいて』百合は女である」となるべきであろう。
では第一夜において現実としてのネガはどう働くのか。
男には百年が訪れた。もちろんそれは一義には形而上の愛の成就、愛の永遠性を意味するだろう。
だがネガとしての現実認識に立つならば、「男の前に出現したものは女ではなく百合であった」のである。構造の二重性によって現実がそこに映しこまれる限り、その視点はおそらく否定されない。
ならば百年の到達は男にとって何だったのか。
端的にこう言おう。百年はたった。男は待つのをやめるだろう。
男が墓標の傍らで待っている間、男と女の間を阻むものは「百年」という時間であった。
百年は長い時間である。だがいかに長い時間であろうとも、それが百年であるかぎり、永遠ではなかった。
男と女の間にある百年という有限可算の時間は、彼らの属する世界の同一性を規定する。だがその約束の時の到達によって、男と女の間にあった百年という有限のつながりは消滅する。
男の前に出現したものが女ではなく百合であったことは、おそらく重要である。
にもかかわらず、百合は男の認識において女であった。男は可算時間を非可算に、つまり現実を非現実に組み替えることによって、百合を女たらしめた。
待つ百年が有限可算であるかぎり、女は男と同じ世界につながるものとして意識されていたはずである。男が立ち至った「可算時間を非可算に」「有限を無限に」組み替える認識とは、つまりその「つながり」の断絶であった。
女はここで決定的に男と世界を違えた。言い方を変えるなら、それは「此岸を彼岸」に組み替えるのと同義であろう。
つまり、男はここで、「女の死を受容した」のではないか。
女の死を受容することで、つまり女を「永遠に失う」ことで、はじめて男にとって百合が女となったのである。文字通りの意味で女を待つ限り、男には百年は決して訪れなかった。「現れたのは女ではなく百合であった」という現実ネガは、ここで意味を持つだろう。
この物語は、形而上の永遠の愛を、そして同時に形而下の永遠の喪失を描き出す。
男にとって百年の到達とは待つ行為の終了を意味した。女の死を認識すれば、それはもはや待つ対象とはなりえない。世界を違え、無限の時に隔てられ、ただ想うものなのだ。
男の目の前で細長い蕾がふっくらと花びらを開く。
「真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った」と、この物語は描写する。
文字にすれば多分追憶と呼ばれる感情の、これほど美しい表現は、おそらくほかにはあるまいと思う。
※ (「漱石はどう読まれてきたか」石原千秋 新潮選書)