魏晋の「狂」の群像
はじめに
中国古代思想における「狂」には、大別すると「狂狷」と「佯狂」の二つの異なる系譜がある。
前者は、孔子が『論語』において「進取の気」として肯定的評価を与えたことに始まり、孟子がこれを祖述し、以後、連綿として明末の王陽明にまで受け継がれ、儒家的な精神文化の一側面を形成している。
後者は、殷王朝の末に狂気を装って紂王の暴政を逃れた箕子に始まるものであり、乱世を生き延びるための「明哲保身」の処世術として、知識人たちが古代から長く守り伝えてきた。
「狂」は、『荘子』においても、特徴的な含意を以て現れる。「無用の用」に徹して禍を免れる保身の知恵としての「狂」は、「佯狂」の系譜上に位置するものである。
また、「猖狂」を表す「狂」は、何物にも束縛・制約されることのない、思うがままの心の状態、ひいては個人の安心立命、絶対的自由の精神という荘子の中核的思想につながる概念として呈示されている。
魏晋の文人に見られる数々の奇行や狂態のさまは、こうしたさまざまな「狂」の概念、とりわけ『荘子』のそれを継承し、実践したものである。
それらは、危難・災禍を回避するための韜晦的手段であることに加えて、道家的な生き方を標榜する文人精神の表れとして捉えることができる。
また、当時の貴族階級の士人たちが、五石散と称する薬物を常用していたことも、彼らの奇行や狂態に密接な関わりを持つと考えられる。
さらに、この頃から、書画の世界において、芸術家のあるべき形象として「狂」や「痴」が掲げられるようになったことも注目に値する。
本稿は、かように重層的にさまざまな要素が絡み合っている魏晋の文人における「狂」の諸相について、その一つ一つの相を『世説新語』に収録された逸話を材料として、整理し考察することを目的とする。
一 魏晋の時代風潮と『世説新語』
『世説新語』は、南朝宋の劉義慶(403~444)が編纂した逸話集である。後漢末から東晋までの著名な人物の逸話、計一千条余りが収録されている。
「徳行」(有徳の行為)、「言語」(機知に富んだ言論)、「雅量」(度量の広い言行)、「排調」(人をやりこめる言動)、「惑溺」(女におぼれた男の話)など、36部門にテーマ分類し、さまざまな人間模様が映し出されている。
各条とも、人物の一つの行動、一つの言葉に着眼し、その人物の全体像を浮き彫りにするという手法が取られている。
当時の士大夫たちの風采容貌・挙措進退・才気品行をわずか数行の簡潔な文章のうちに捉え、その人物の個性や気質を生き生きと描写している。
後漢末から東晋にかけての時代は、反乱や簒奪が相継ぎ、権力抗争が絶えることのない動乱の時代であった。
そうした不安定な社会情勢を反映して、魏晋の時代には、老荘思想が盛行し、文人たちは道家の典籍に精通していた。
そうした中で、『老子』『荘子』『易』の三書を「三玄」と呼んで尊崇する玄学が成立する。
玄学は、魏の正始年間に、何晏・王弼らが『老子』と『易』を好み、その注釈書を著して宣揚したことに始まり、のちに、阮籍・嵇康らが、とりわけ『荘子』を重んずるようになる。
玄学の隆盛に伴って、魏晋の名士たちの間では「清談」が盛んに行われるようになる。
清談の起源は、後漢末に、宦官の跋扈に抵抗した清流派の「清議」にあるとされている。
これは、政治批判を目的とした時事論議や人物批評であったが、魏晋の時代に至ると、社会不安から、知識人たちは、現実逃避の傾向を強め、世俗の政事や礼教道徳に背を向け、儒仏道の高遠な哲理を遊戯的に弄び、非現実的な空理空論を語り合うようになる。
こうして、清議はしだいに政治性を失い、超俗的で高雅な清談へと変貌するが、人物批評を語る伝統は、依然として続いた。清談の中では、しばしば名士たちの容姿・言動・風格・度量などが、とやかく論じられている。
さらに、魏からは、世間の評判によって官吏を登用する「九品官人法」が施行されたため、魏晋の貴族社会では、人物批評にいっそう熱が入り、互いに人を褒めたり貶したりして品定めする風潮が盛んになった。
やがて、こうした人物批評が、逸話集として、文字に書き留められるようになる。『世説新語』は、裴啓の『語林』、郭澄之の『郭子』など、先行の書物を基にしながら、これらを適宜改編して成り立ったものである。
この時代において、名士として良い評判を得るのは、必ずしも聖人君子のように品行方正に振る舞うことではない。むしろ、型破りで痛快な言動や、ウィットに富んだ粋な発言がもてはやされ、人々は風変わりで個性的な生き方を競うようになる。
そうした生き方の一つが「狂」であり、『世説新語』の中には、文人たちの奇行や狂態の数々が克明に記されている。
そうした例が最も多く集中しているのが「任誕」篇である。
「任誕」とは、自由奔放、勝手放題の意であり、この篇には、常軌を逸した奇行や狂態を以て自らの存在を示そうとした人々の逸話が収められている。
形骸化・形式化した礼教道徳の束縛から解き放たれ、気の向くままに行動する生活の中に、真の人間性を模索していた人々の姿が描かれている。
「任誕」篇の冒頭に登場するのは、「竹林の七賢」と呼ばれる文人たちである。
とあるように、日々痛飲しながら清談に耽った一群の文人であるが、中でも傑出した存在が、阮籍と嵇康である。
二 カモフラージュとしての「狂」
阮籍、字は嗣宗。魏に仕えて、従事中郎、歩兵校尉となり、世に阮歩兵と称す。
『晋書』や『世説新語』などに記されている阮籍の逸話には、反礼教的な韜晦の処世態度を物語るものが多い。
『世説新語』「簡傲」篇には、次のような逸話がある。
晋の文王(司馬昭)の座で、ただ一人あぐらをかいて嘯き、酔っぱらって平然としていたという。
『晋書』「阮籍伝」には、さらに、以下のような逸話が見える。
世俗の礼法を無視した振る舞いや、常軌を逸した奇怪な言動を示す数々の逸話が並び記されている。
阮籍のこうした奇行や狂態は、一種の自己防衛であり、狂気を装うことで自らを無用者として顕現し、自分に対する政治の風波を避けようとしたものである云々、と一般的には解釈されている。
後述のように、これは単なる自己防衛ではなく、そこには思想的な要因、さらには社会習俗的な要因が絡んでいるのであるが、基本的には、明哲保身の処世態度を示したものであると解釈してよいであろう。魏晋の際の険難で陰惨な時代を生き抜くためのしたたかな処世術である。
「阮籍伝」に、次のようにある。
もともとは済世の志を抱いて政界に入った阮籍も、乱世にあっては、初志を貫き通すことは難しく、のちに、その姿勢を転換せざるを得なくなる。
上文の中で言及している、生命を全うすることができなかった名士とは、嵆康らのことを指している。
嵆康、字は叔夜。魏の中散大夫となる。魏王朝と姻戚関係にあったため、晋王朝においては、もともと難しい立場に置かれていた。
「山巨源に与えて交わりを絶つ書」の中の「湯・武を非とし、周・孔を薄(うとん)ず」という一節が、名教を露骨に否定するものとして司馬昭の怒りを買い、のちに、呂安の不孝罪に連座して処刑された。
阮籍が、常に酔態を呈して政事との関わりを避け、官途に野心のないことを示そうとしたのは、まさにこうした時代の危うさゆえであった。
司馬氏政権の統治イデオロギーに抵触する名教批判によって死を招いた嵇康とは対照的に、阮籍は、本意を包み隠して、政治的、倫理的な発言を控えていたゆえに、天寿を全うし得たのである。
近人の銭鍾書は、『管錐編』の中で、阮籍と嵇康を並べて、
と論じ、それぞれ「避世之狂」「忤世之狂」と称している。
阮籍の詩が極めて難解なのも、詩作によって災厄に遭うのを恐れて、ことさら抽象的、韜晦的な表現を用いているためと言われる。
魏晋の時代において、こうした韜晦的所作は、阮籍にのみ特徴的に見られるものではない。時の権力者との縁談を断る、という似たような話は、王衍にもある。
『晋書』「王衍伝」に、
とある。王衍は、楊駿(楊皇后の父)の娘との縁談を迫られたが、「陽狂」によってこれを破談にし、のちの禍(八王の乱)を免れた。
このように、「狂」が自らの身を守るためのカモフラージュの役を担っている例を『世説新語』の中から、さらにいくつか拾ってみよう。
「方正」篇に、次のような話がある。
孔群が、匡術に対して暴言を吐く。匡術が怒って、孔群に斬りかかると、孔愉が「いとこは気が狂ったのだ、許してやってくれ」と取りなして、孔群は命拾いをする、という話である。
本来なら許されないところを「狂」であるから見逃してくれ、ということである。「狂」は、危難を逃れるための免罪符のようなものとして働いていることになる。狂者に対しては罪を問わない、という暗黙の社会的ルールがあることを前提として、はじめて成り立つやり取りである。
「黜免」篇の諸葛宏の話も、これと相通ずるところがある。
諸葛宏が、讒言を受けて、遠方へ流されることになった。罪名が「狂逆」であることを知った諸葛宏は、「逆と言うなら、死罪も当然だが、狂と言うなら、流される筋合いはない」と反駁する。
「逆」は、君主や体制に背く反逆の行為であり、論ずる余地無く、法によって裁かれる大罪である。しかし、「狂」は、罪にはならない。むしろ、「狂」であることによって、罪が情状酌量される。
「狂者」は、普通の社会生活を送ることができない者として、倫理秩序の外に置かれる。
元来、「狂」や「痴」は、疾病の一種であり、これを患う者は、人間社会の枠から弾き出されるわけであるが、そのことによって、正常な人間に適用される倫理的準則や法的罰則が適用されなくなるのである。
つまり、一種の逃げ道が与えられることになるわけであり、現代社会において、精神鑑定で異常を認められた犯罪者が無罪(あるいは、減刑)になるのと似通っている。
また、「狂」は、相手の警戒心を解く方策としても用いられる。
「任誕」篇に、次のような逸話がある。
この兵卒は、「狂醉」によって、追っ手の猜疑心を解いて、庾冰を難から救っている。
狂態を呈して、先方から相手にされないように振る舞うことによって、相手を欺くのである。
先に挙げた阮籍の例にも見られるように、カモフラージュとしての狂態の中で、最も一般的、かつ簡便な方法は、泥酔によるものである。
北宋・葉夢得『石林詩話』の中に、晋代の人々の飲酒について、示唆的な一節がある。
人々は、しばしば酒の話をし、泥酔する者もいるが、その目的は、必ずしも酒自体にあるわけではない。苦難の時代に生きた人々は、禍が及ぶのを恐れ、酔態にかこつけて、世事から遠ざかろうとしたのだ、という。
酒に酔うことは、災厄を避けるための手段として、様式化されていた。
したがって、その目的が達せられればよいわけであるから、人々は、必ずしも本当に暴飲したり、泥酔したりしたわけではなく、ただそのふりをしていただけなのだ、というわけである。
三 パフォーマンスとしての「狂」
阮籍をはじめとする魏晋の文人の「狂」は、基本的には、保身を意図した処世術である。
しかしながら、それは、単に消極的な逃避や自己防衛としてなされたものではなく、ある意味で、一種の積極的な自己主張、自己表現の形として解釈した方がよい場合がある。
儒家の道徳的規律や儀礼的慣習に相反する奇行や狂態は、儒家と対峙する道家の唱える自由の境地を追求するもの、そして、そうした老荘流の生き方を実践しようとするもの、として捉えることができる。
老荘思想が盛んであったこの当時、奇行や狂態そのものが、世俗を超脱した高雅な文人精神を寄託する士大夫の行動様式としてもてはやされるような時代風潮があった。
白川静が「狂字論」で、次のように述べている。
そうした風潮の中においては、「狂」や「痴」は、決して誹謗ではなく、人物評としては、むしろ敬慕の念を含んだ賛辞であり、文人たちもまた自ら「狂」の人、「痴」の人たらんとしたのである。
再び、『世説新語』の中から、まず阮籍の例を見てみよう。
「任誕」篇に、次のような逸話がある。
阮籍は、母親の葬儀の際、哭礼もせずに、泥酔して髪を振り乱し、足を投げ出して坐ったまま、弔問客に応対したという。
この逸話には、思想的背景がある。
『荘子』「至楽」篇に、死に関する荘子の持論が展開されている。
阮籍の狂態は、この寓話を実践したものであり、『荘子』の中で披露されている「万物化生」の道理に基づくものである。
弔問に訪れた裴令公(裴楷)は、阮籍を「方外之人」と呼んでいる。これもまた『荘子』「大宗師」篇に見える言葉で、礼教道徳に基づく規範や常識によって形作られる四角い世俗の枠から外れた人間のことをいう。
阮籍は、まさにこの「方外之人」を演じているのである。自分は、礼教のしきたりには束縛されない、世俗を超越した世界に遊んでいるのだ、という道家流の生き方を誇示する意図が窺える。
阮籍は、母親の服喪中にも、狂態を演じている。同じく「任誕」篇に、
とあるように、阮籍は、服喪中であるにもかかわらず、司馬昭の座に在って酒を飲み肉を食らっていた。
厳正な人柄で知られる司隷校尉の何曾がその場に同席していて、処罰を進言したが、司馬昭はまったく取り合わず、その間、阮籍は、泰然自若として飲み食いを続けていたという。
ここでの阮籍の狂態は、もはや韜晦を意図するものではない。
阮籍は、司馬昭が自分に危害を加えないことをわかった上で、こうした振る舞いをしているのであるから、これは、自己流の生き方を顕示するためのパフォーマンスである。
阮籍が忌み嫌ったのは、形骸化した礼教道徳の虚偽性である。
とりわけ、父母の葬儀や服喪は、儒家の礼教道徳において極めて重要な儀礼であるゆえに、それをないがしろにする態度は、脱俗的、反礼教的な姿勢を示すには、最も効果的な宣伝になるのである。
次に、劉伶の例を見てみよう。
「任誕」篇にある逸話には、脱俗的、反礼教的な姿勢を誇示する演技が見て取れる。
劉伶が、彼の放縦な振る舞いを譏る俗人に向かって「なんで俺のフンドシに入ってきたのだ」と言い返す、という痛快な話であるが、これも明らかなパフォーマンスである。
『晋書』「劉伶伝」に、
とあるのを、そのまま演じたようなものである。
阮籍の場合と同じように、やはり荘子の思想が根底にあり、「天地と我とは並び生じ、万物と我とは一(いつ)為り」という荘子の「万物斉同」の思想を実践する行為である。
このように、魏晋の文人たちは、自覚的に狂態を演じたのであるが、それは、狂態そのものを目的としていたわけではない。
彼らが目指していたのは、「狂」なる言動を通じて、「達」の境地(物の道理に通じたさま)に至ることであった。
「達」の概念は、儒家にも道家にも見られるものであるが、ここでいう「達」は、後者のそれであり、とらわれのない自由奔放な行為を物の道理に通じた「達」と見なしていた。
『世説新語』で見る限りでは、魏晋において、初めて「達」を以て称されたのは、阮籍である。
のち、多くの文人たちが、これに追随する。「徳行」篇に、
とあるように、王澄・胡毋輔之ら名士たちは、もっぱら「任放」(気ままで放埒)な行為を以て「達」を気取るようになる。
『晋書』「光逸伝」には、「八達」と呼ばれた八人の放縦不羈な名士たちの逸話がある。そこには、彼らが、裸体で髪を振り乱し、昼夜を問わず酒宴に興じ、好き放題に振る舞ったさまが記されている。
「達」を自任する文人たちの放誕の度合いが、しだいにエスカレートし、かつ集団化していった状況を窺い見ることができる。
四 ファッションとしての「狂」
魏晋の文人の狂態には、多く酒が伴う。とりわけ、阮籍の逸話には、酒が付きものであり、劉伶には、「酒徳頌」と題する酒を讃える文章まである。
もう一つ、この時代の文人の狂態を考える上で見過ごせないのが、薬物である。当時、薬物を服用して気分を昂揚させることが、一種のファッション(風習、流行)であった。
『世説新語』「言語」篇に、次のようにある。
ここで、何平叔(何晏)が、病が治るばかりでなく気分が晴れ晴れするとしている「五石散」とは、魏晋から唐代にかけて貴族の間で流行した一種の覚醒剤のような薬物である。
五石散は、寒食散ともいい、石鍾乳・石硫黄・白石英・紫石英・赤石脂を調合した鉱物系の薬である。
初めて五石散の処方をしたのは、後漢の張仲景であるが、その頃は、まだ広く用いられてはいなかった。
魏に至って、虚弱体質であった何晏が、自らその処方に手を加え、滋養を補い、気分を昂揚させる目的で服用するようになった。
その後、同じく鉱物を原料とした煉丹術で不老長寿を希求する神仙思想と相俟って、五石散は、貴族の間で服用者が増え、大いに流行する。
愛用者としてよく知られる文人には、王弼・夏侯玄・王戎・嵇康・王羲之らがいる。
五石散は非常に高価で、一般庶民には手が届かなかったことから、五石散を服用することは、風流な貴族であることの証であり、ステータスシンボルのようになっていた。
五石散は、病を癒やし、体力を増強する効果がある反面、毒性が強い。
副作用が激しく、服用後に、然るべき手順を経て行動しないと、死に至ることもある、という危険な薬物であった。
五石散を飲んだ後は、やるべきことと、やってはならぬことがある。
まず、毒を身体から発散させるために、服用後、すぐに歩き回らなければならない。これを「行散」という。
行散した後、発熱して身体中が熱くなり、やがて寒気がしてくるが、この時、厚着はせずに薄着をして、さらに冷水をかぶる。
また、空腹であってはならず、昼夜を問わず、一日に何度も食事をとらなくてはならない。しかし、温かい食事は禁物で、必ず冷たい物を食べなくてはならない。但し、酒だけは例外で、逆に温めて飲まなければならない。
五石散は、魏晋の士大夫の風俗習慣に少なからぬ影響を与えていた。
晋代の文人たちが、みな帯をゆるめてダブダブの服を着て、下駄を履いていたのは、五石散を飲んでいると、発熱や痒みで、身体にぴったりとした服や靴を着用することができないからであるという。
また、服喪中に礼法を無視して飲み食いするのも、五石散の服用後は、空腹であってはならないからだ、という見方もある。
当時の文人たちが、しばしば裸でいたり、髪を振り乱したり、足を投げ出して座ったりというのも、実は、礼教道徳に対する反駁という思想的な背景を論ずる以前に、薬物の作用が引き起こす生理的な必然性による振る舞いである、というもっと単純な理由である可能性も考えられる。
劉伶が部屋の中で裸でいた、という逸話の場合でも、もしこれが行散の後であるとすれば、荘子の思想云々ということに加えて、薬物の作用で皮膚が剥けやすく痒いために衣服を脱いでいた、というごく簡単な理由も併せて考えられるのである。
いずれにしても、『世説新語』に見られる魏晋の文人たちの奇行や狂態と五石散の服用とは、決して無関係ではない。
魯迅は「魏晋風度及文章与薬及酒之関係」という文章の中で、次のように語っている。
五石散の服用は、険悪な政情の中に置かれていた士大夫たちの現実逃避の意図も確かにあったであろうが、『世説新語』などの文献を見る限りでは、必ずしもそのような忘憂が目的ではなかった。
五石散は、畢竟、麻薬である。貴族社会の日常に深く入り込み、不健全な生活習慣となって、彼らの精神を蝕んでいたのである。
五石散を常習すると、その毒性の影響が、人格や気性にまで及び、現代の麻薬中毒患者と同じように、病理的に精神異常をきたした狂態を呈するようになる。
例えば、皇甫謐について、『晋書』の伝が、
と記すように、薬物が人の性癖や日常生活に、少なからぬ影響を及ぼしていたことが推察できるのである。
五 アイデンティティーとしての「狂」
最後に、もう一つ触れておきたいのは、魏晋の芸術における「狂」についてである。
魏晋の時代、「狂」は、芸術における高雅な風格の一つとされていた。
書家・画家にとって、「狂」を自任することは、自らを芸術家として位置づけ、芸術家としてのアイデンティティーを示すことにほかならなかった。
ここでは、顧愷之を例に取ってみよう。
顧愷之、字は長康。東晋の画家である。博学で才気に富んでいたが、また数々の愚かしい奇行が伝えられており、「痴」と称された。
『世説新語』「文学」篇に収録されている顧愷之の逸話に付した劉孝標の注は、宋の明帝の『文章志』を引いて、次のように記している。
「画絶・文絶・痴絶」とは、丹青、詩文、そして痴愚のさまにおいて、並はずれていることをいう。
「痴」もまた「狂」と同じく、原義は否定的なものでありながら、多くの場合、誹謗を意味する言葉ではなく、純真で俗気のない人間像として、羨望や敬愛の念を伴った肯定的含意を以て語られる。
そして、「痴」という概念は、「狂」と表裏一体の関係にある。
世俗と相容れない独自の生き方を志向する時、それが外側の人間社会に対して発散的に対峙する方向に向かえば「狂」となり、内側の精神世界に凝固的に埋没する方向に向かえば「痴」となる。
顧愷之は、芸術の世界に没頭し、数々の愚かしいエピソードの中で、その「痴人」ぶりを発揮している。
『晋書』「顧愷之伝」には、次のような逸話がある。
桓玄に大切な絵を盗まれても、そうとは気づかず、「絵が素晴らしいあまり、神霊に通じ、姿を変えて昇天してしまった」と言った、という有名な話である。
同伝には、ほかにも、謝瞻に吟詠を褒められると、得意になって翌朝まで吟じ続けたという話、人の姿を消すことができる柳の葉のことを信じ込んだという話などが記されている。
「痴」と呼ばれる所以となっているこれらの逸話は、諧謔的な雰囲気を漂わせていながらも、決して滑稽談ではなく、顧愷之の芸術家としての闊達とした風格、超脱とした精神を示すものである。
顧愷之は、絵を描く時、霊感が湧くと、楼に登って、家人に梯子を撤去させ、寝食も忘れて精神を集中し、忘我の境地に入り込んだという。
こうした顧愷之の人物形象は、『荘子』「田子方」篇に登場する「解衣槃礴」の画家の姿を彷彿とさせる。
宮廷に召されても、礼儀作法には一切従わず、裸で足を投げ出して、一心不乱に絵を描いた者を、君主が「真の画者」と呼んだ、という寓話である。
『荘子』に見られるこうした超脱として、とらわれのない自由奔放な狂態に、真の人間のあり方を追求する、という審美観は、魏晋の文人たちの反俗的、脱俗的行為の裏に隠された文人精神につながっている。
顧愷之本人に、「狂」や「痴」を自覚的に任ずる意識があったかどうかは定かではない。むしろ、彼の生きた当時、あるいは、後世の文人たちが、顧愷之の「狂痴」たる人物形象を芸術家のあるべき姿として典型化したところから、いつの間にか、そうした顧愷之の虚像が形作られていった、と考える方が、実情に近いかもしれない。
虚像であれ、実像であれ、いずれにしても、顧愷之が世に示した高雅な「狂痴」の風格は、いつしか芸術家のアイデンティティーとして標榜されるようになる。
そして、芸術家たる者は、「狂痴」たるべし、「狂痴」にあらざる者は、芸術家にあらず、という様相を呈するようになるのである。
おわりに
『世説新語』に見られる狂態の逸話は、魏晋という特異な時代の政治・社会・思想・風俗を象徴する一つの縮図である。
本稿では、そうした「狂」の諸相について、さまざまな視点からの考察を試みた。便宜上、カモフラージュとしての「狂」、パフォーマンスとしての「狂」、ファッションとしての「狂」、アイデンティティーとしての「狂」に分けて論じたが、実際には、逸話ごとに、これはこのタイプの「狂」というように、明確に振り分けられる問題ではなく、一つの逸話の中に複数の「狂」の相が重なり合う場合がほとんどである。
魏晋の文人の狂態を語る時、この険難な時代の風波を避けるための韜晦的手段として説明されることが多い。
「佯狂」を意図した狂態は、殷・周にまで遡る長い歴史を持った伝統的な処世術であり、魏晋の文人たちも、そうした手段によって、困難な時代を生き抜こうとしていたのである。
一方で、この時代、老荘思想が盛行したことに伴い、文人たちは、道家流の生き方を志向し、その実践の一つの表れとして「狂」を演じた。
したがって、韜晦の狂態にしても、ただ危険な状況から逃げ隠れしようとしたわけではなく、多くの場合、道家思想、とりわけ、荘子の思想に基づいた自己主張が、その行為の裏に秘められているのである。
また、視点を変えれば、薬物の服用が、狂態の具体的な表れ方に少なからぬ作用を及ぼしていたことも、この時代の「狂」を考える際に、欠かすことのできない重要な鍵である。
さらに、書画の世界においては、「狂」であり「痴」であることを真の芸術家の証であるとするような風潮が、この時代に始まり、以後、明清に至るまで、芸術家たちが「狂痴」たることを誇りとして自任する伝統が続くのである。
関連記事:
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?