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【中国の思想と文化】「性善説」と「性悪説」~自己修養と社会統制


孔子と孟子


 孔子の没後百年ほど経った戦国時代、魯の隣国である鄒の国に孟子が生まれた。孟子は、孔子の儒家思想を継承、発展させた。孔子に次ぐ聖人という意味で「亜聖」と呼ばれる。

孟子

 孔子の思想は、『論語』という弟子との言行録の形で伝わったため、思想全体の体系的まとまりを持たず、個々の概念規定も明確にされないままになっていた。

 孟子は、そのように雑然とした形で残された孔子の教えを一つの思想体系としてまとめた。

 「仁」についても、孔子においては、情緒性と規範性が渾然一体の状態であったが、孟子はこれを「仁」と「義」に分化させた。

 「義」とは、物事の宜しきを得、正しい筋道にかなっていることをいう。孟子は、こう明快に述べる。

仁は人の心なり、義は人の路(みち)なり。
(仁は、人が持っている本来の心である。義は、人が踏み従う道である。)

 ここでは、内面的・情緒的な美徳である「仁」と、外面的・規範的な道徳である「義」を並べて説いている。そして「仁」は「義」の助けを借りて、はじめて適切に実践することができるとした。

孟子の「性善説」


 上の孟子の言葉は、次のように続く。

其の路を舎(す)てて由らず、其の心を放ちて求むるを知らず。哀しいかな。
(人々はその道を捨てて、それに踏み従わず、その心を失って、それを探し求めようとしない。ああ、悲しいことだ。)

 当時、多くの人々が、踏み従うべき道を捨ててしまい、本来の心を失ってしまっていることを嘆いている。
 
 これは、「性善説」に基づく発言である。「捨てた」「失った」ということは、もともとは持っていた、ということである。

 孟子は、人は誰でもみな「人に忍びざるの心」(人の不幸を見過ごすに堪えられない心)を持っていると説く。つまり、人が生まれながら持っている思いやり、いたわり、同情心のことである。

 そして、人がみなこうした心を持っていることを証明するために、次のように語る。

人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今人乍(たちま)ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠(じゅつてきそくいん)の心有り。
(人間にはみな「人に忍びざるの心」があるという理由は何か。それは、今、突然、幼児が井戸に落ちそうになっているのを見たとすれば、どんな人でも、ハッと驚き、憐れみ痛む気持ちを抱くからだ。)

 幼児が井戸に落ちるという喩え話は、実に巧妙である。これには反論しようがない。人間であれば、誰でもすぐに「あっ、可哀想!」という気持ちが自然に起きるはずだ、と孟子は言い、次のように結論づける。

是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。
(こうしたことから考えると、憐れみ痛む心のない者は、人ではない。)

 そして、ここぞとばかり、一気に畳みかけるように、こう続ける。

羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。
(不義を恥じる心のない者は、人ではない。他人に譲る心のない者は、人ではない。善悪を判断する心のない者は、人ではない。)

 これら四つの心――「惻隠之心」「羞悪之心」「辞譲之心」「是非之心」は、それぞれ「仁」「義」「礼」「智」の萌芽であり、人間であれば、誰にでも生まれつき備わっているものである、と孟子は説く。

荀子の「性悪説」


 孟子の「性善説」に異を唱えたのが、戦国時代末期、孟子より半世紀余り後に現れた荀子である。荀子は、孔子の学派において、「礼」の精神を継承した学統に属する。

荀子

 孟子の「性善説」に真っ向から反対して、「性悪説」を主張した。
 荀子は、人の本性について、次のように述べる。

人の性は悪なり、其の善なる者は偽なり。
(人の生まれながらの本性は悪なるものであり、その善なるものは、後天的な人為によるものである。)

 荀子は、人の本性は悪であると断言し、その根拠を次のように述べる。

今人の性は、生まれながらにして利を好むこと有り。是に順う、故に争奪生じて辞譲亡(ほろ)ぶ。・・・生まれながらにして耳目の欲有りて、声色を好むこと有り。是に順う、故に淫乱生じて礼義文理亡ぶ。
(今、人の本性を考えてみると、人は生まれながらにして、利益を好む性質がある。この性質のままにしておくと、争いや奪い合いが起き、譲り合うことがなくなる。・・・人は生まれながらにして、耳目の感覚的な欲望があり、美しい音や色を好む性質がある。この性質のままにしておくと、淫らで節度を失い、伝統に則した正しい生き方や物事の道理が失われてしまう。)

 人間は、生まれながらにして、利を好んだり、欲望に流れたりする性質がある。だから、人の本性をそのままにしておくと、必ず争奪が起こり、秩序が乱れ、ついには無法状態になる、と荀子は説いている。

「性善説」と「性悪説」


 孟子と荀子は、人の本性について、一方は善ととらえ、一方は悪ととらえるというように、出発点がまったく正反対である。

 しかし、実は、その目指すところは同じで、両者とも、どうしたら人の世をうまく治めることができるか、を論じている。

 性善・性悪の議論は、人の本性が善か悪かを証明すること自体が目的なのではない。

 論点は、次のステップにある。善であれば、それをどうしたらよいのか、悪であるなら、それをどうしたらよいのか、という方法論における議論なのである。

 孟子は、人の本性は善であるとしている。ところが、この善なる本性は、欲望によって、損なわれたり、失われたりする。そこで、「人は、本来の心を失わないようにしっかりと保持し、そして、さらに拡充すべきである」というように、自己修養の大切さを唱える。

 これに対して、荀子は、人の本性は悪であるとしている。したがって、人は、放任しておくと、悪に向かう傾向がある。そこで、「人間本来の性質を矯正し、善に向かわせるために、教育や指導が必要である」というように、社会統制の必要性を主張する。

 「性善説」と「性悪説」は、いずれも諸子百家の時代に、遊説家の言説として成り立ったものである。

 したがって、元来は、哲学的な議論のテーマというよりは、むしろ諸侯のための政策論、政治論として提示されたものである。

 当時、孟子の「性善説」は、迂遠な理想主義として敬遠され、共鳴を得ることはあっても、結局、諸侯の採るところとはならなかった。
 
 一方、荀子の「性悪説」は、人間の行為を客観的、現実的に把握し、天下の秩序を保つための方策を示したものであり、説得力に富むが、ややもすると、外的抑圧に正当性を与える結果になりかねない。

 荀子自身は儒家に属すが、その「性悪説」は、のちに、専ら法令や賞罰による支配を唱える法家思想を生んでいる。

社会秩序と学校教育


 「性善説」と「性悪説」の是非や優劣については、軽々しく論じることはできない。ましてや、高度に複雑化した現代社会にそのまま当てはめて語るのは難しいが、あえて今日の社会秩序や学校教育の問題に置き換えて考えてみると、どうであろうか。

 秩序や教育の問題を解決しようとする時、「性善説」の立場をとるか、「性悪説」の立場をとるかによって、対処の仕方は自ずと違ってくる。

 秩序維持や生徒指導の上で速効性のあるのは、「性悪説」の方であろう。道路交通法の罰則を強化すれば、飲酒運転や駐車違反は、確実に減少する。処罰を伴う厳しい生徒指導をすれば、少なくとも表面上は、非行や規則違反は、件数が減るであろう。

 現実に即して考えるならば、人々が安心して生活できる社会環境、豊かな教育が円滑に行える学校環境を保つためには、それを乱す者に対して、ある程度、厳しい姿勢で臨まざるをえないであろう。

 しかしながら、そうした抑圧的な対処の仕方は、いわゆる管理社会や管理教育を生むことにもなり、一歩間違えると、たいへん危険である。
 
 そもそも、違反が減ったのは罰金がイヤだから、非行が減ったのは退学が怖いからということでは、本当の意味での社会秩序や学校教育の改善が達成されたことにはならない。

 しかも、為政者や指導者にとって都合のいい国家や学校が、国民や学生にとって望ましいとは限らない。

 むろん、今日の人間社会が「性善説」で治めきれるとは、到底思えない。
しかしながら、人と人との心が通い合う社会、思いやりのある温かい社会を築いていくためには、少なくとも、その精神を忘れてはならないであろう。

 「性善説」を理想主義と決めつけて切り捨ててしまっては、いつまでたっても理想には近づけない。

 中国人は、古来「中庸」を重んじる。左右に極端に走らず、中間の程々が宜しいとする考え方である。要するに、どちらにも片寄らないバランス感覚を重視する。

 孔子の教えにも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉がある。

 極端に走ることは、どちらの方向であっても、危ういのである。
「性善説」で対処するばかりでは、非現実的な夢物語で終わる。
「性悪説」で対処するばかりでは、人間社会が殺伐としたものになる。

 月並みな管見ではあるが、自由と規制、飴と鞭、アクセルとブレーキ、
というように、臨機応変な使い分けが、賢明なのかもしれない。




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