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【香港雑記】中島みゆき@Hong Kong

日本の歌謡曲@Hong Kong

中島みゆき、西城秀樹、玉置浩二、木村拓哉、中森明菜、宇多田ヒカル、   浜崎あゆみ、近藤真彦、福山雅治、安室奈美恵、嵐、AKB48・・・ 

香港で人気のある日本人歌手は誰? 
と聞かれたら、枚挙にいとまがない。

日本で人気のある歌手は、ほぼ例外なく、香港でも人気がある。
日本でヒットした歌は、ほとんど間違いなく、香港でもヒットする。

日本のトップ歌手の多くは、香港でコンサートを開いている。
紅白歌合戦は、毎年、日本と時差ゼロで生中継される。 

最も早く香港でアイドルとなったのは、西城秀樹だ。
1981年を初めとして、以後、何度も香港公演を行っている。
熱狂的なファンが多く、香港メディアも「超スーパースター」扱いした。

2018年、彼が亡くなった時、香港の主要な新聞が、一面全体に写真を載せ、訃報を伝えている。

「蘋果日報」一面(2018.5.18)

マッチこと、近藤真彦も、とても人気があった。
「夕焼けの歌」が大ヒットし、男性ファンは、髪型を真似たりもした。

しかし、彼の場合は、事情が少々複雑だ。
中森明菜とアニタ・ムイ(梅艷芳)に二股をかけたことが、香港人の大顰蹙を買った。

中森明菜は、香港でも非常に人気がある。
一方、アニタ・ムイは、当時、香港の歌姫と呼ばれたトップスターだ。
この二人を同時に弄んだとんでもない男として、彼を「渣男」(クズ男)と呼ぶアンチが多い。

近藤真彦とアニタ・ムイ(2011.10.15)

香港の音楽界について特筆すべきは、80年代、90年代に、日本のカバー曲がとても多かったことだ。

メロディーと編曲を同じにして、歌詞だけを中国語にする、というカバーの仕方だ。歌詞は、翻訳するのではなく、作詞家が新たに創作する。だから、もとの歌とまるっきり内容が違う場合もある。

当時、香港でヒットした曲の多くは、日本の歌謡曲のカバー曲だった。
有名な日本の歌は、ほとんどが広東語でカバーされていたと言ってよい。

下の動画は、山口百恵の「さよならの向こう側」をカバーした、レスリー・チャン(張国栄)の「風継続吹」と、玉置浩二の「行かないで」をカバーした、ジャッキー・チュン(張学友)の「李香蘭」だ。 


中島みゆき

さて、上に挙げた錚々たる顔ぶれの中でも、中島みゆきは別格だ。
中華圏のSNSの言葉を借りれば、「神」だ。
「国宝級歌姫」などという言い方もされる。

中島みゆきは、中華圏では「老太婆」と呼ばれている。
老婆という意味ではない。女性の大御所歌手に対する敬意と親しみを込めた愛称だ。

アルバム「夜を往け」(1990)
アルバム「EAST ASIA」(1992)
アルバム「パラダイスカフェ」(1996)

歴代の日本人歌手の中で、ただ単に人気があるだけでなく、香港の音楽界に絶大な影響を与えたのが、中島みゆきだ。

「中島美雪養活半個香港樂壇」「老太婆拯救港台樂壇」などという文句が、しばしば使われる。
中島みゆきが、香港の音楽界の半分を養育した、香港・台湾の音楽界を救済した、という意味だ。

養ったとか、救ったとかという言い方をするのは、当時、香港の音楽界が、香港独自の音楽作品を創作しようという気風がなく、大半の歌曲を日本の流行歌のカバーで済ませていた、という実情によるものだ。

日本でヒットした曲は、香港でも必ずヒットするから、カバーでまかなってしまう方が、手っ取り早く、確実に収益が得られる、というわけだ。

[Live]1995 Love or Nothing

トップスターの流行歌の多くがカバーされてきたが、その数が圧倒的に多いのが、中島みゆきだ。

中島みゆきのカバー曲は、70曲以上ある。
中には、同じ曲を複数の歌手が異なる歌詞でカバーしているのもあるので、それらを加えれば、100曲を越える。

下に貼ったのが、その110曲を網羅した動画だ。
各曲とも部分的な収録なのに、一通り聴くのに、2時間半かかる。

フェイ・ウォン

中でも、「ルージュ」は、フェイ・ウォン(王菲)が「容易受傷的女人」というタイトルでカバーし、香港の音楽賞を総なめにした。

そして、フェイ・ウォン以外にも、複数の歌手によって、広東語や北京語でカバーされ、香港のみならず、中華圏全体、いや、アジア全域でメガヒットした。

ヒット曲が山ほどあって、どれが代表作と言うのも難しい中島みゆきの作品群の中では、「ルージュ」は、さほど目立った存在ではないが、香港では、そのカバー曲「容易受傷的女人」を知らない人はいない。

カバータイトルは、傷つきやすい女、という意味だが、原曲のメロディーがいいのに加えて、広東語の歌詞がまた、すごくいい。
広東語独特の趣があって、もとの歌詞とはまた別の魅力がある。

フェイ・ウォンは、この一曲で、香港歌謡界のトップに躍り出た。
カバー曲であるにもかかわらず、というところが、香港の特殊事情だ。


1995年4月、中島みゆきは、香港でコンサートを開いた。
中島みゆきの海外公演は、香港が最初で最後だ。
あの中島みゆきがやって来る!ということで、香港中が大騒ぎになった。

「日本音訊」(1995年5月9日)

このことは、中国大陸のファンも知っていて、

「なんで香港だけなの?」
「上海にも来て~!」

と、SNS上でラブコールが絶えない。

[Live]1995 Love or Nothing  香港公演ポスター

今は、若いアイドルが年々デビューしてファンを獲得しているので、かつてほどメディアで話題になることはなくなったが、中華圏には、中島みゆきのコアなファンが多い。

百度貼吧には、中島みゆきファンの交流サイトも開設されている。

70年代から2000年代にかけて、4つの年代にわたって、オリコンのシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティスト、中島みゆき。

今年71歳、古希を越えて、まだまだ健在だ。

アルバム「みんな去ってしまった」(1976)
[Live]歌暦 1985-1986
アルバム「時代」(1993)


*ヘッダー画像:[Live]1995 Love or Nothing


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